コリント人への手紙Ⅰ


11
主を喜び拝する者と
コリント第一 3:16-23
詩篇     93:7-15
Ⅰ あなたがたは神殿です

 先週、もしかしたらコリント教会は、家の集会というそれまでのスタイルを脱して、会堂を建てようとしていたのではないかと触れましたが、「あなたがたは神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿です」(16-17)と、彼らが新しく建てようとしている会堂?もまた、従来の神殿に等しく、そこは主にお会いし、主を賛美し、祈り、礼拝するところだと聞きました。

 パウロは、ユダヤ人が培って来た神さまへの信頼と敬慕を背景に、彼らの「神殿」信仰の立ち位置を取り上げます。それは、移動式の天幕であったり、固定の建物であったりと変化して来ましたが、やがてエルサレムに建てられた「ソロモンの神殿」が南北統一イスラエルの聖所として知られ、慕われて来ました。奉献式の時にソロモンが、「天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。けれども、あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、主よ。あなたのしもべが、きょう、御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。そして、この宮、すなわち、あなたが『わたしの名をそこに置く。』と仰せられたこの所に、夜も昼も御目を開いていてくださって、あなたのしもべがこの所に向かってささげる祈りを聞いてください。あなたのしもべとあなたの民イスラエルが、この所に向かってささげる願いを聞いてください。あなたご自身が、あなたのお住まいになる所、天にいまして、これを聞いてください。聞いて、お赦しください」(Ⅰ列王8:27-30)と祈り、また、預言者イザヤが、「わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ」(イザヤ56:7)と神さまの声を聞いたように、そこで神さまにお会いするのだという信仰や祈りが向かうところ、それが神殿だったと言えましょう。

 しかし、ユダヤ人にとっての神殿は、ある意味、ギリシャやカナンの神殿を模したもので、先進国文化への憧れという一面もあったのです。メソポタミヤで発生した「神殿」という宗教文化は、すでに世界の標準になっていました。そして、大都市コリントにも、アポロン神殿など、ギリシャ世界特有の神殿がいくつもありましたから、コリント教会の人たちは、「あなたがたは神殿です」と言われたその意味を、「神さまとお会いするところ」というより、自分たちの知性や主義主張を具体化し満足させる宗教文化の中心、と受け止めたのではないでしょうか。


Ⅱ 主に倣うことを

 何回もやりとりをする中で、コリント教会の人たちのそんな意識を見定めたからでしょうか。パウロは、彼らの問題点に踏み込みます。「だれも自分を欺いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分は世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。『神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕らえる。』また、次のようにも書いてあります。『主は、知者の論議を無益だと知っておられる』」(18-20) 彼らの問題点は、自分たちを賢いとしていることでした。前に、「人間的な意味での、恐らく貧しくて『愚か者』『弱い者』『ない者』が、分裂分派という思想抗争に加わることで、自分たちを『賢い者』『分別ある者』と勘違いし、そうすることで、自分たちをひとかどの者であると錯覚してしまった」(コリント講解説教5)と触れましたが、パウロは、そのことを反省して欲しいと願っているのでしょう。なぜなら、本当に賢い者は、人間の知恵など振り回さず、神さまの前で謙遜になるべきだからです。それが信仰者としての本来の立ち方でしたが、そんな立ち方を志さない教会が、各地で目立つようになっていたのでしょうか。愛の教会と呼ばれるピリピ教会にも、問題が起こっていたようです。

 ピリピ教会に宛てたパウロ書簡のことばを、もう一度お聞きください。「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。……それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」(ピリピ2:4-9)

 パウロがここに引用した旧約聖書の二箇所のことばは、ヨブ記と詩篇からです。「神は知恵のある者を、彼ら自身の悪知恵を使って捕らえる。彼らのずるいはかりごとはくつがえされる」(ヨブ5:13)、「主は、人の思い計ることがいかにむなしいかを知っておられる」(詩篇94:11)と、これは恐らく、コリント教会の人たちが人間のすぐれた知恵と受け止めていたストア哲学に対する、パウロの反論なのでしょう。ストア哲学は、快楽を愛するエピキュロス哲学に対抗して、徳を重んずる禁欲を建前とし、人間の理性はすべてに優先すると、当時のギリシャ思想界の寵児でしたから、大方のコリント教会の人たちは、その虜になっていたのでしょう。そして、神さまの知恵に立つことを忘れていました。


Ⅲ 主を喜び拝する者と

 パウロは言います。「ですから、だれも人間を誇ってはいけません」(21) もし神さま(断じて神々ではない)と人間を比べ、どちらが優れているかと問うなら、誰もが一様に「神さま」と言うでしょう。それは、人間理性を優先する現代人も、紀元一世紀当時のギリシャ人も同じです。けれども、コリント教会の人たちが受け入れていた人間理性には、グノーシス主義異端が提唱する精霊が絡んでいました。ですから、個々人の思惑や価値観に反映された彼らには、キリスト教は優れた宗教としか映らなかったのです。グノーシス主義の知恵や霊に捕らえられた彼らは、意図しない争いに巻き込まれ、神さまの宮とされた自分たちの内面が浸食されて行くことに気がつかず、その意味で彼らは、「優れた霊を持つ人間理性・宗教人」こそ最高という罠に捕らわれていたのでしょう。パウロは、そんな状況を把握していましたから、「だれも人間を誇ってはならない」と言ったのです。コリント教会の人たちが見据えなければならなかったのは、自分たちの知恵でもグノーシスの霊でもなく、自分たちの内面までも見通されるお方・彼らを創造された神さまであり、十字架に贖罪となって下さったイエスさまであり、自分たちを神さまの宮として内在されるパラクレートス・御霊だったのです。それをはっきりさせるなら、「人間を誇るな」というパウロのことばの意味が、分かるのではないでしょうか。

 パウロは宣言しました。この箇所のクライマックスです。「すべては、あなたがたのものです。パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてはあなたがたのものです。そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです。」(21-23) すべてのものは自分たちと自分たちを教え導いた教師たちが把握し得るものであり、自分たちはその知恵に従うと、他の人たちを見下し……、それが分裂分派の争いになっていったのですが、それは、人間の知恵をもって思い上がった者たちの、行き着く所でした。しかし、神さまの知恵に満たされるなら、人間の理性がどんなにちっぽけなものか、分かって来るでしょう。イエスさまの十字架に罪を赦され、神さまの民とされ、内在の御霊に照らされた者たちには、世界最高の人間理性は、救いに招いて下さったお方を賛美し、仕えることでしかないと、はっきりして来るのではないでしょうか。人間の理性と神さまの知恵、この二つの違いは紙一重かも知れませんが、神さまは私たちの主という信仰に立つなら、そこには天と地ほどの違いがあるのです。「すべてはあなたがたのもの」とは、「すべてはキリストのもの」と、その意味で聞かなければなりません。先に引用した詩編94篇には、次のような続きがあります。「主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに、戒められ、あなたのみおしえを教えられる、その人は。わざわいの日に、あなたがその人に平安を賜るからです」(12-13) その主・神さまの前にへりくだり、主を喜び、感謝し、主を拝する、そんな信仰者になりたいではありませんか。



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