コリント人への手紙Ⅰ


恵みと祈りによって立つ
コリント第一 1:1-3
詩 篇  2:7-9
Ⅰ ヨハネの先駆者として

 今朝から、異邦人の使徒と称されたパウロの手による、コリント第一書に入ります。
 これまで、私たちはヨハネ福音書を学んで来ましたが、それはエペソ教会の牧者ヨハネが、そこで語って来たメッセージを骨格とするものでした。ですからヨハネ福音書には、エペソ教会の状況が色濃くにじみ出ているのです。そのエペソ教会は、パウロの働きによって建てられ、10数年を経て、ヨハネの手に委ねられた群れなのです。第二次伝道旅行でコリントからアジヤ属州の首都エペソにやって来たパウロは、一旦はエルサレムに戻りますが、第三次伝道旅行ではエペソに直行して、三年もの間そこで働きました。

 その間コリントの教会は、ユダヤ人の介入もあって様々な問題を引き起こし、ついにそれはイエスさまを信じる信仰の問題にまで発展して、パウロに助けを求めて来ました。パウロはエペソからコリント教会に宛てて何通もの手紙を書いていますが、現在残っているのは、コリント第一書と第二書だけです。この二通の書簡には、ヨハネの時代まで尾を引く教会全体の問題が取り上げられていて、パウロの心血を注いだイエスさまの福音が、余すところなく語られています。ある意味でヨハネは、そんなパウロ神学を引き継いだと言えるでしょう。ところで、コリント第一書への言及は使徒後教父・ポリュカルポスの手紙にも見られるそうです。この書簡がエペソ教会でも読まれ、ヨハネやヨハネの弟子たちにも親しまれていたと伝わって来るではありませんか。そこから、ヨハネ福音書講解説教に続くものとしてエペソ書を考えましたが、年代的に少し後になりますので、先にコリント書を取り上げることにしました。

 古代都市国家(ポリス)コリントスのことに、少し触れておきましょう。当時のコリントスは商業都市として栄え、アテネを抜いて、ギリシャ第一の都市になっていました。コリントスは、ギリシャ本土とペロポネソス半島を結ぶ巾6㌔の「コリント地峡」の中心に位置しています。コリントスをギリシャ第一の都市に築き上げた第一の功績は、全長6.3㌔にも及ぶアドリヤ海とエーゲ海を結ぶ、コリント地峡を通る運河の建設です。運河といっても、それは1800年という近代のことで、古代コリントスは、地峡に二つの溝を掘り、そこに舟を運搬する大きな台車を置いて馬に引かせ、両海域を結びました。紀元前六世紀の都市国家・コリントスの僭主ペリアンドロスによるものだそうです。それまでは、ペロポネソス半島の320㌔にも及ぶ海域をぐるっと迂回していましたから、地峡を舟で通り抜けるコースを造ったコリントスは、大変な利益とギリシャ第一の都市という栄光を手にしました。


Ⅱ パウロ渾身の挨拶が

 ギリシャ第一のポリスとなった商業都市コリントスに、ディアスポラのユダヤ人が居着いたのはごく自然なことでした。当時のものでしょうか。1898年に、ユダヤ人会堂に掲げられていたと思われる、「ヘブライ人のシナゴグ」と刻印された、看板のような石が発見されたそうです。パウロが出入りしていたシナゴグだったのでしょうか。第二次伝道旅行で、小アジアのトロアスから、ヨーロッパのピリピに足を伸ばし、テサロニケ、ベレヤ、アテネ……と廻ってコリントに着いたパウロは、(その?)ユダヤ人会堂に赴きます。その地方第一の都市で、ユダヤ人会堂を働きの足場とするのは、パウロの伝道戦略です。そこで、クラウディウス帝の「ユダヤ人はローマから退去すべし」という勅令のため、ローマから来ていたアクラとプリスキラ夫婦に出会い(使徒18:2)、パウロは、彼らに支えられながら、イエスさまの福音を伝えます。しかし、その会堂のユダヤ人たちは、パウロと論争するうちに、パウロは自分たちが大切にして来た律法に逆らう者であるとして、猛反発して来ます。パウロは、別の場所に働きの拠点を移しながら、結局、コリントでは、一年八ヶ月あまり働きました。このユダヤ人たちは、第三次伝道旅行でエペソを拠点に働き始めたパウロを攻撃するために、エペソ教会にまで潜り込んで来ます。ヨハネの時代に、エペソ教会が抱えた「初めの愛から離れてしまった」(黙示録2:4)という問題は、彼らによって引き起こされたと言っていいでしょう。

 前置きはそれくらいにして、コリント第一書に入りましょう。今朝のテキストは、1:1-3です。
 「神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」(1-3) この挨拶文は、パウロ書簡の定型ですが、それにしても、「コリントにある神の教会へ」「キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ」などなど、パウロの思いがぎっしりと詰まっていて、パウロ渾身の挨拶と言えましょう。内容は本文講解で取り上げますが、コリント教会には、問題を抱える現代の教会が重なっているようです。そこに凝縮されている問題への回答と慰めと祈りを、聞いていきたいと思います。


Ⅲ 恵みと祈りによって立つ

 「神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ」と、この挨拶文の中心を彩るキイワードは、「神のみこころ」です。パウロは、このことばによって、自分の立ち位置を明確にしました。これは、多くの問題を抱えていたガラテヤ教会に書き送った書簡に、「私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのである」(1:1)とある主張に比べますと穏やかですが、本質的には何も変わっていません。コリント教会の人たちは、パウロの使徒職に疑問を抱いていたのです。使徒職は、当時の教会にとって、後のローマ教皇以上に絶対的な権威でした。コリント教会が抱えていた問題は、分裂分派の争いや、近親相姦といった肉欲的な生き方、聖であるべき聖餐の場が醜い食の争いになっていたなど、一般市民にさえ見られないものでしたが、その中心は、神さまの欠如という、イエスさまの名が冠せられた教会としては、根本的な問題でした。中世の、肥大化し世俗化したローマ・カトリック教会のケースを上げるまでもなく、それは、現代の多くの教会に共通する問題でもあるのではないでしょうか。

 しかし、驚くべきことにパウロは、そんなコリント教会に、なおも「神の教会」「キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々」と呼びかけているのです。それは、儀礼的挨拶ではなく、「(彼らは)主に召し出された聖なる者」であると、認識していたことを示しています。そして彼は、「私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに」という一文を加え、直接にはこの書簡を書いているエペソ教会の人たちを意識してのことと思われますが、コリント教会を、ユダヤからギリシャに至る、世界に建てられた主の教会に列するものと位置づけているのです。問題があろうがなかろうが、大きい小さいに関わらず、イエスさまの名が冠せられた教会は、イエスさまの教会であると……。きっとそこには、エペソ教会の人たちの祈りがあったのでしょう。兄弟ソステネとありますが、彼は、コリントでパウロが移り住んだテテオ・ユストの家に隣接するシナゴグで、一家をあげて主を信じた会堂管理者クリスポ(使徒18:8)の、恐らく後継者と思われますが、パウロに反抗するユダヤ人が暴行した会堂管理者ソステネ(同17)と同一人物なのでしょうか。同一人物だとすれば、彼はエペソに移り、パウロの同労者となったのでしょう。ソステネの名が挙げられたのは、そんなコリント教会であっても、なお神さまのみこころに添う聖徒であるとするパウロの励ましと、背後にあるエペソ教会の祈りを知らせるシンボルではなかったでしょうか。

 「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように」と、これはギリシャ社会とユダヤ社会の文化が融合した定型の挨拶文ですが、私たちへの恵みと祈りがぎっしり詰まった、暖かい挨拶と聞こえてくるではありませんか。どんなに小さな群れでも、問題を抱えた弱い群れでも、恵みの主に、そして多くの方々の祈りに覚えられている。だから立ち続けていられるのだと、そんな挨拶を交わせる聖徒になりたいではありませんか。



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