2008 Christmasu Message



2018年・受難週


他者のための祈りを

使徒行伝 9:15−16
イザヤ書 53:10−12

T 恵みとしての苦難を

 今朝、受難週を迎えました。この受難週で取り上げたいのは、パウロのもとに遣わされた、ダマスコ在住のキリスト者アナニヤに託されたイエスさまのメッセージに、「彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです」(使徒9:16)とあるところです。

 今、コリント第二書の講解説教の最中ですが、そこには、「私たちは、四方八方から苦しめられていますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません」(4:8-9)とあります。パウロの苦難については、第二書11:23-28に詳しく描かれていますが、その苦難は、この世の神・サタンが、パウロの弱さに付け入って自分の力を見せつけ、イエスさまに付き従うパウロを自分の陣営に引き込もうとする罠なのでしょう。もし、パウロがその力に屈してしまったなら、サタンはその苦難を取り除き、パウロを優れた律法学者として、ユダヤ人世界で重く用いられるようにしたでしょう。けれどもパウロは、そんな苦難に打ちのめされることなく、勇敢に戦って、サタンの足下にひれ伏そうとはしませんでした。パウロには、その苦難のために、死をも恐れない勇気を主から頂いていました。パウロにとって、それらの苦難は、主からの恵みでもありました。ですから彼は、「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらす」(4:17)と、まるで、患難が御国への通行手形でもあるかのように、嬉々としてそれらを受け入れたのです。


U あなたのために主が

 パウロは、襲いかかる苦難の中で、いつも死を覚悟していたのでしょう。パウロが経験したのは、それほどの苦難でした。コリント第二書には、「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです」(4:10)とあります。その苦難は、イエスさまの日々が苦難と背中合わせの死に向かう歩みでしたから、そんなイエスさまの名のために選び出されたパウロの、「どんなに苦しまなければならないか」を自分の責務とわきまえた歩みでもありました。イエスさまの十字架を自分のこととして背負い、死に向かい続けたパウロの、血を吐く叫びにも似た、しかしそれは神さまの御国で憩う永遠のいのちに至るとのメッセージは、聞く者たちへの励ましだったのではないでしょうか。

 イエスさまは、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マタイ16:24)と言われました。これは、私たちを永遠のいのちに招こうと、救いの道を歩み通されたイエスさまと共に、他者の苦難を自分の事のように負う者こそイエスさまの弟子なのだ、と聞かなければなりません。ここに「他者」への言及はありませんが、イエスさまは罪あるすべての者のために苦難を負い、その救いのために死なれたのです。罪のために死ぬべきは、私たちでした。パウロはそのようにイエスさまの道を歩んだのです。

 イエスさまの十字架を、「私の罪の贖いとして死んで下さった救いの出来事」と聞くとき、それは、冷たく血の通わない「キリスト教教理」としてではなく、あなたのために苦しんで苦しんで苦しみ抜いて死んで下さった、神さまからのメッセージとして聞くのです。パウロはそれを、襲い来る数々の苦難の中で、「イエスさまの名のために、どんなに苦しまなければならないか」というあのメッセージと共に、何度も驚きを覚えつつ聞いたのではないでしょうか。パウロの改心の補足記事には、「わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである」(使徒26:17-18)という、イエスさまのメッセージがあります。そこには、「暗やみから光りに」「サタンの支配から神さまに」という、パウロが担った福音の真髄が、見事に描かれているではありませんか。迫害者パウロに現われたイエスさまが、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」(使徒9:4)と言われたことばから、そんな暗やみ=極限の苦難に置かれたイエスさまの姿が浮かび上がって来ます。そして、同じようにパウロの苦難は、この世のあらゆる暗やみの中で、そんな主の十字架を具現化するものと聞かなければならないでしょう。それは、光に向かう歩みでもあるのです。


V 他者のための祈りを

 パウロはイエスさまから、「なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ」(使徒26:14)と言われました。「とげのついた棒……」は、ギリシャ三大悲劇作者として知られるエウリピデスの格言だそうですが、恐らくルカは、パウロのメッセージの聞き手だった総督フェストの主賓・アグリッパU世を意識して、絶対者である神さまの意志に逆らうことの空しい抵抗を指摘したのでしょう。当時、ガリラヤ地方の王だったアグリッパU世は、「ユダヤ教の権威」と言われていました。「とげのついた棒」は、刑罰か拷問用の棍棒か鞭か、もしかしたら、イエスさまの頭上にかぶせられた茨の冠が念頭にあったのかと想像しますが、どちらにしても、肉に食い込む「トゲ」の痛みを、ルカは、師パウロが、自分の痛みに重ね合わせるように、イエスさまの十字架の痛みとして担ったと言っているのです。

 この受難週に、私たちは、十字架に磔られたイエスさまの激しい苦しみと、尋常ではなかったその死を思うのですが、今朝は、そこからさらに一歩踏み込んで、自分自身が抱える痛みをそこに重ねながら、なお、そこから私たちを救い出して下さった出来事として、「主の十字架」に思いを馳せたいのです。いや、それだけでは不十分でしょう。イエスさまのように、他者の痛みや悩みや悲しみを自分の事として覚える者となりたいのです。イザヤ書の「苦難のしもべ」の章には、「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう」(53:11)とあります。私たちも、イエスさまに倣い、苦しむ人たちの痛みを覚え、その苦しみや滅び行く悲しみを自分の事として覚える者となりたいではありませんか。パウロはそのように立ちました。他者の痛み、悩み、悲しみ……、その苦しみは、自分自身が味わうことで初めて共有することが出来、イエスさまの受難を思うことが出来るのです。他者のために祈る者になりたいと願います。とりわけ大切な人のために……。「イエスさまの御名のために苦しむ」と、今朝のこのテキストは、その祈りを言っていると聞きたいのです。