<イースター>



2018年・復活節

光をつむぐ者と

使徒行伝 26:22−23
                                イザヤ書   49:5−8


T アグリッパ二世の前で

 イースターおめでとうございます。この小さな群れも、全世界の教会で覚えられ祝われているイエスさまの復活の出来事に、主イエス・キリストを頭とする一つ共同体に加えられていることを、まず感謝したいと思います。その意味で、イエスさまの十字架の救いと復活の希望は、そこに招かれた者たちが繰り返し聞かなければならない、イエスさまの福音の中心主題なのです。先週の受難週礼拝では、イエスさまの十字架を、襲いかかる様々な苦難を通してパウロが学んだように、私たちも他者の苦しみを負いつつ祈る者でありたいと聞きました。今朝は、イエスさまの復活の出来事を、そのパウロの証言から学んでいきたいと思います。カイザリヤの総督府にローマ総督・フェストを表敬訪問した、ガリラヤの王・アグリッパ二世に向けて語られたパウロの証言からです。アグリッパ二世は、使徒たちを迫害し、虫にかまれて息絶えた、アグリッパ一世(ヘロデ王・使徒12章)の息子ですが、彼は後年、ユダヤ人に寄り添う統治を志し、迫害の渦中にあったキリスト教徒たちに、様々な形で手を差し伸べていたようです。パウロとの出会いが、彼に大きな変化をもたらしたのでしょうか。

 パウロは、その証言の最初に、復活されたイエスさまとの出会いを取り上げています。迫害者だったパウロが、福音の宣教者として召し出された時のことです。ダマスコ郊外で、強い日差しが降り注ぐ中での劇的な出会いを、パウロはこう語っています。「正午ごろ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの回りを照らしたのです」(13) そこには、パウロがイエスさまと交わした会話も証言として記されています。「主よ。あなたはどなたですか。わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(15)、「わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす」(17)と。この詳細な描写は、パウロとイエスさまの出会いが、単なる夢や幻でなかったことを物語っています。パウロは、彼の目撃した証言を、彼の身に実際に起こった出来事として語っているのです。


U 預言者の証言という文脈の中から

 その上でパウロは、「こうして、私はこの日に至るまで神の助けを受け、堅く立って、小さい者にも大きい者にもあかしをしているのです。そして、預言者たちやモーセが、後に起こるはずだと語ったこと以外は何も話しませんでした。すなわち、キリストは苦しみを受けること、また、死者の中からの復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える、ということです」(22-23)と締め括りました。

 パウロがここで伝えたかったのは、イエスさまの受難と復活でした。しかし、ローマの貴族でもあったアグリッパにとって、イエスさまが十字架に磔けられて死なれたことが、贖罪であり、救いであるという福音はともかくとして、イエスさまの復活を「信じるか」という問いかけは、無理難題というものでしょう。ローマ人は現実主義者だからです。しかしパウロは、アグリッパが旧約聖書に通じていて、「ユダヤ教の権威」と言われた知識人であることを知っていましたから、「預言者たちやモーセ」の証言として、イエスさまの福音の中心を語ろうとしたのです。「モーセ」の名が挙げられたのは、アグリッパが律法に通じていたからで、ここでは預言者、特にイザヤの証言が取り上げられています。

 パウロは、旧約聖書に精通しているアグリッパ王なら、預言者のメッセージに耳を傾けてくれるだろうと、そこに望みを託したのでしょうか。何故なら、救い主イエス・キリストは、預言者の証言という文脈の中で語られているからです。旧約聖書に通じているアグリッパが、預言者云々と聞いて、今、噂されているイエス・キリストのことを思ったとしても、不思議ではありません。キリストは、ユダヤ人が待ち望んでいたメシアだからです。


V 光をつむぐ者と

 十字架と復活に凝縮されるイエスさまの福音の、わけてもその復活には、御父としての神さまの介入がありました。パウロは、自分が経験した事実としての出来事以上に、そのことを重んじたのです。パウロが復活のイエスさまにお会いした記事(使徒9:1-19)は、使徒行伝に二回補足され(22:4-21、26:12-23)、より詳しく描写されています。中でも26章の記事でパウロは、アグリッパを聞き手としたためか、「預言者たち」(22)を証言者の中に加えています。「神さまの介入」とは、そのことです。パウロが取り上げたのは、預言者イザヤを通して、神さまが、ずっと以前に(紀元前730年頃)イスラエルの人々に伝えていたことです。イザヤ書には、「あなたがわたしのしもべであるのは、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのうちの残されている者たちを帰らせるという、小さなことのためだけではない。わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする」(2017年版新改訳49:6)とあります。その証言は、パウロが聞いたイエスさまの、「それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである」(同、使徒26:18)ということばに重なります。

 この「しもべ」は、本来、イエスさまを指しているのですが、イエスさまはそれを、パウロに重ねました。今朝のテキストに「死者の中からの復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える」(23)とあるのも、パウロが自分にそれが託されていると受け止めたからでしょう。パウロはそのように、主のしもべ・光の使徒として、イエスさまの福音を伝えました。そしてアグリッパに、「あなたは預言者を信じますか」と問いかけたのです。しかし、アグリッパ王からは、「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている」(使徒26:27)と、うめきにも似た絞り声しか出て来ませんでした。「預言者を……」という問いかけに、「私をキリスト者に……」と答えたことから、彼はパウロの質問を、「イエスさまを信じるか」と問いかけられたと、明確に理解したのでしょう。けれども彼は、「信じます」とは答えられなかったのです。きっとその問いかけは、その後のアグリッパ王の生き方の、ユダヤ人民と誠実に向き合った統治や、ユダヤ戦争初期に敗戦したシリヤ属州のケスティオス長官や落ち目になったネロ帝への誠実な対応から、その生涯の大きな課題となって、神さまと向き合いながら、なんとか「信じます」と答えようとしていたのではないかと想像するのです。残念ながら、資料からその痕跡を見つけることは出来ませんが……。

 アグリッパだけではありません。死者からの復活と聞きますと、現代の合理的思考に馴れた私たちには、その奇跡的唐突さだけが強く響いて、「そんなことは、あり得ない!」と思ってしまいます。しかし、歴史の文脈から聞きますと、神さまの輝きに招かれるためには、その不思議は、神さまから出たことと聞かなければならないのです。いづれ、終末のどこかの時点で、私たちもまたその復活の光栄に招かれるのですが、パウロは、その光の証人として立てられました。私たちも、みことばを学び、主に感謝し、賛美するキリスト者のあり方を学ぶことで、その光・福音に招かれる望みをつむぐ者でありたいと願います。