2017 Christmas Message


永遠の命のもとで

            ロマ書 5:18−21
創世記   3:1−7

T エデンの園で

 12月3日と10日の二回のアドベントで、ロマ書1:2-6を見て来ました。このクリスマスに取り上げるもう一つのテキストは、ロマ書5章からです。その中でパウロは、アダムとイエスさまを対比して取り上げていますが、その意図を考えてみたいと思います。

 最初にアダムのことから見ていきましょう。諸説あって未確定ですが、「土(ヘブル語・アダマー)」に由来する固有名詞「アダム」が、神さまに創造された最初の人として描かれています。その様子は、異なるソースがあって、「神は、人をご自身のかたちに創造された」(1:27)、「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は生きるものとなった」(2:7)と、二箇所に記されています。神さまは、愛や知恵のすべてを注いで、ご自身に似た者としてアダムを創造されました。「神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた」(2:8)と、神さまはアダムを、エデンの園に住まわせました。そこは二つの大河が大地を潤す、メソポタミヤの肥沃な土地でした。しばしばニュースにもなりますが、今も多くの人たちが「エデンの園」を発見しようとし躍起になっているのは、アダムの記事を事実と受け止めているからなのでしょう。聖書の記事は、単なる神話ではないのです。

 神さまは、アダムを住まわせ管理させた「エデンの園」で、「あなたは、(園の中央にある)善悪を知る木の実は食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」(2:16-17)と言われました。ところが、狡猾な蛇(サタンの化身?)にそそのかされて、彼の妻エバが、そしてアダムもその実を食べてしまいました。神さまの言いつけに逆らう「罪」とその結果である「死」が人の中に入り込んで来た、その瞬間です。その辺りが描かれている創世記3章でアダムは、「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない」(3:19)と言われてしまいます。

 パウロは、そのアダムを、「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」(12・新共同訳)と語り始めます。アダムは最初の人として創造されたと言いましたが、それは、ホモ・サピエンスとしての最初という意味ではなく、神さまの前における「罪と死と救い」の系譜の中での、最初の人という意味です。


U イエスさまにある恵みの道を

 アダムを通して、私たち人間に、「罪」と「死」が入って来ました。「原罪」と呼ばれています。
 しかし現代人は、アダム個人が犯した罪が我々を拘束するのは不当と主張しますが、果たしてその主張は当たっているでしょうか。パウロはここで、「すべての人が罪を犯したからである」と、踏み込んでいるのです。確かにアダムは、「食べてはならない」と言われた木の実を食べ、神さまの言いつけに逆らうという「罪」を犯しました。しかしそれは、妻エバが「おいしいよ」と言って渡したので食べたのです。「罪」が伝染病のように広がって行く様を、創世記は見事に描き出しているではありませんか。そこには、真実の中に巧みに忍び込ませた「嘘」、「欲望」、「神さまのようになるという高慢」の、「罪の本質」が見え隠れしています。それはアダムに端を発したことではありますが、その一つ一つが具体性を伴って現代の私たちにまで入り込んでいるのであって、原罪がそのまま受け継がれたのではありません。木の実を食べたという原罪は、あくまでもアダム自身に帰すことですが、それは「神さまに逆らう」「神さまのようになる」という意味を持っていて、「神さまのようになる」、「なりたい」というその思いが、「嘘」や「欲望」や「高慢」を引き起こし、巧妙な言い訳とともに具体化され、ときには「知恵」や「道徳」や「信心」などに形を変えて、延々と引き継がれてきたと言えるでしょう。「善悪を知る木の実」を食べ、今もなお食べ続けているのは、私たちなのです。

 ですから私たちは、神さまとともに歩む道を知ることよりも、人間の知恵に依存することを好み、魅力ある、より優れた個性的(と思っている)生き方!を選び取っているのです。しばしば私たちは、「個性的」という、本来、人間として優れた資質の中に、自らのエゴーに基づいて物事や人を取捨選択してしまう、「罪」が隠れ潜んでいることを知らなければなりません。その磨かれていない、荒々しく自己を主張して止まない個性が、時には「罪と悪」の道であり、一直線に「死」に向かう道であることを……。そうではない、「善」と「謙遜」と神さまを知り、神さまと共に歩む道があるにもかかわらず、自分が負うことも出来ないのに「自己責任」を豪語し、神さまが望まない道を選び、その道を強引に歩き続けてきたのではないか……、と告白せざるを得ません。
 その道を修正することは、出来ないのでしょうか。

 今朝のテキストでパウロが提唱する、「もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです」(5:15)という宣言は、罪に誘うアダムと罪を赦すイエスさま、死に至る滅びといのちの恵みの対比に他なりません。その対比を通してパウロは、私たちに、アダムが選んだ道ではなく、イエスさまにある恵みの道を選んで欲しいと願っているのです。


V 永遠の命のもとで

 パウロは、「アダムはきたるべき方のひな型です」(5:14)と、世に来られた恵みの主イエスさまを前面に押し出しました。バルトは、「アダムからキリストへ―これが人間および人間世界を取りさばき給う神の道である」と言っていますが(ロマ書上巻)、その通りであって、アダムの生き方を知らずして、イエスさまの恵みを知ることが出来るでしょうか。いや、もっとはっきりと言わなくてはなりません。自分が陥っている「罪」を知らずして、「恵み」を受け取ることは出来ないのだと……。罪を知り、その罪を赦して下さる方を知ることで、恵みに行き着くことが出来るのです。バルトはその神学を、ナチとの戦いの中で構築してきました。ナチの罪は、バルト自身の罪だったのです。彼は「高慢」を罪の原点と、最高峰に掲げています。人は神さまに取って代わろうとしているのだと……。ですから、彼の行き着いた神学は、イエスさまの恩寵を何よりも大切にしているのです。それは、アダムから始めたパウロも同じでした。恵みとしての「来るべき方のひな型」、これこそパウロ流の、イエスさまご降誕の証言なのでしょう。罪と死がアダムから広がって行ったように、赦しと恵みが、イエスさまから流れ出て行くのだと……。罪の大きさにおののき震える者だけが、受けた「恵み」の素晴らしさに、喜びの声を上げることが出来るのです。福音宣教者パウロの本領が、生き生きと伝わって来るではありませんか。

 このローマ書は、エルサレムへ出発する直前、滞在していたコリント教会から書き送られたもののようです。恐らく、全世界に影響力を持つであろうローマ教会で、イエスさま福音の中心主題を明らかにすることで、全世界に建てられる教会の立ち方に、くさびを打ち込もうとしたのでしょう。パウロは、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです」(20-21)と証言しています。それが教会の掲げる最も大切なことでした。

 人となって私たちの世に来られたイエスさまは、十字架と復活によって、罪と死に支配されている私たちを解き放ち、永遠のいのちの支配下に置いて下さいました。アダムの登場は、その発端でした。旧新約両聖書は、神さまの計画の全容を明らかにしようと、その救いの系譜を啓示しています。その意味で主のご降誕は、旧約と新約の時代を結んでいます。イエスさまのことは、発端のアダムから、そして、永遠の都に私たちを招かれる救いの到達点からと、その双方の中心で見るべきことなのです。神さまは、そのように私たちの歴史に介入されました。クリスマスは、12月25日という、歴史上のイエスさまご降誕を覚えるメモリアル・デイではありません。イエスさまの恵みを覚え、感謝と賛美をイエスさまに献げる日なのです。このクリスマスに、永遠の都に私たちを招いて下さる方の恵みを、新たに覚えたいではありませんか。