2017 Christmas Message


恵みの主のご降誕を

            ロマ書       1:2−6
エゼキエル書 37:24−28

T 神さまの御子として

 第二アドベントを迎えました。今朝は、先週に続き、ロマ書1:2-6から、もう一つのことを見ていきたい思います。

 パウロが掲げたテキストはこうでした。「―この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。あなたがたも、そのれらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。―」 今朝は、「御子は、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです」とあるところからです。

 パウロはここで、ご降誕に並べ、「死者の中からの復活」をもって、イエスさまは「公に神の御子として示された」と宣言しています。ところが、ご降誕と復活を並べ、それがイエスさまだとするパウロの説明は、私たち人間の常識や理性ではとても理解出来るものではありません。ご降誕については、「御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ」とありますが、マタイやルカは、「おとめマリヤより生まれ」と、そこに処女降誕という不思議を伴わせていても、「生まれた」という事実をもって、イエスさまが私たちのところ(この世)に来られたと言っているのです。降誕=誕生は、人の世の常のことです。ところが、「死者の中からの復活」などという不条理は、批評的現代神学が標榜する、人間の常識や理性の範疇を飛び越えたもので、処女降誕の不思議とは、とても比較出来るものではありません。「死」は、私たち人間にとって絶対的なもので、もし、それを「不老不死」と言うなら、不可能ではあっても、古来、人々が想像して来たことです。しかし、その「死」に囚われた者が復活したなど、「奇跡」と言うにはあまりにも世の常識や想像を超えた出来事でした。にもかかわらずパウロは、その不条理を、イエスさまの出来事の中に、当然のこととして組み入れているのです。これは神さまのされたことであると……。それは私たち人間の想像範疇にはないことですが、それがどういうことなのかを探ってみたいと思います。


U ご降誕と復活

 イエスさまのご降誕と復活、そこには、大きな違いとともに、同一性が認められます。どちらも、私たち人間の歴史に深く刻み込まれたイエスさまの中心的出来事で、神さまに創造されながら罪と手を結んだ私たちを、再びご自分の民として招こうとされる神さまの、「救い」の計画なのです。その発端であるイエスさまのご降誕は、ヨハネによれば、「初めにことば(ロゴス)があった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は神とともにあった。……ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ福音書1:1-2、14)とあるように、先在のロゴス・イエスさまが肉体を纏って人となられた出来事であり、復活は、その肉体を捨てて霊の身体によみがえったことにより、死ぬべき私たちの未来に、新しい希望を開かれた出来事なのです。

 そう聞きますと、「肉体を取って」と「肉体を捨てて」との間には、十字架に凝縮されたイエスさまのご生涯があったことは言うまでもありません。「肉体」を取っているのは私たち人間です。その人間と関わるために、先在のロゴスが人となって世に来られたのです。イエスさまが世に来られ、人となられたのは、十字架に死んで私たちの贖罪となるためでしたが、復活は、死への勝利のしるしであり、私たち人間の救いという、十字架の意味の確定でした。「大能によって公に神の御子として示された」とは、その意味なのです。「示された」は、「宣言された」というニュアンスが強いのですが、つまり、その「宣言」は、不条理とも見えるイエスさまの復活についてであり、それは、神さまによる私たちの救いの計画が実行されたとの、宣言に他ならないのです。これは、王たる方からの一方的な宣言で、人間理性が異議申し立て出来るものではありません。私たちはただ、その宣言を拝し受け入れることしか出来ないのです。しかもそれは、私たちがどんなに努力しても手にすることの出来ない、珠玉の恩恵なのです。

 その珠玉の恩恵に深く関わった方がおられます。イエスさまご降誕のとき、ルカは「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます」(1:25)と、マリヤに現われた天使のことばを伝えていますが、その「聖霊」がイエスさまの復活にも大きく関わったと、パウロは証言しています。「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです」と。イエスさまのご降誕と復活、これは、パウロが組み立てた知的作業・神学の中で産み出されたものではなく、聖霊によって啓示されたことでした。伝道者パウロは、神さまから召し出されてその務めを果たして来たのですが、そこに聖霊の助けがあったのは、言うまでもありません。


V 恵みの主のご降誕を

 聖霊は、神さまの出来事を現在化するお方ですが、そのお働きは、イエスさまの一部始終に深く関わったばかりでなく、イエスさまを信じる人たちの中においても、イエスさまを証言する内的力となっています。ですからパウロは、こう証言しました。「このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けた。あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々である」と。ここに出て来るお方はイエスさまです。けれども、その恵みをもって、イエスさまを信じる信仰に召された私たちを満たし、パウロを使徒の務めに招き出されたお方は、聖霊なのです。そのお方がイエスさまの恵みを現在化され、多くの人たちが主の民とされました。ヨハネはこのお方を、「パラクレートス(助け主)」と表現していますが、現代の神学者たちが言う「現在化」とは、その意味で語られています。

 創造の神さまのことも、十字架のイエスさまのことも、私たちの内側においてそれを恵みとする、聖霊のお働きの中で「現在化」されていると覚えて欲しいのです。宗教改革者カルヴァンは、そのことを、「キリストは死人のうちから復活したもうとき、まことに天上的な・また聖霊による大能が発揮されて、神の御子と宣せられたもうた。しかし、この大能は、この同じ御霊によって、信仰者の心情のうちに印銘されるときに理解される」(ロマ書註解)と言っています。聖霊は、信仰の告白やバプテスマを受けて教会に迎えられるなど一過性のことだけではなく、やがて天上の都に招き入れられる日まで、私たちのうちに住まわれて「内住する神さま」として、私たちとともに歩まれ、助け、励まし、この世にあって遭遇するあらゆる苦難をともに担ってくださる「力」となって下さるのです。私たちに内住される聖霊は、イエスさまと私たちの発端を彩るのです。イエスさまのご降誕が、私たちの主とともに歩む歩みの始まりであったように、主の復活もまた、私たちの天上を目指す歩みの発端と聞かなければなりません。主のご降誕と復活は、私たちへの「恵み」に凝縮されているのですが、その意味で、一括りのことであると受け止めて頂きたいと思うのです。

 繰り返しますが、聖霊によって私たちは、イエスさまを主と告白し、その共同体に組み入れられ、主を賛美し、聖餐をともにし、主を崇める者とされました。教会は、今、混乱の極みにある地上に建てられていますが、永遠の都に招かれた者たちなのですから、その中でも輝き続けるのです。エゼキエル書に、「わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らとのとこしえの契約となる。わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。わたしの聖所が永遠に彼のうちにあるとき、諸国の民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知ろう」(38:26-28)とあります。パウロは、伝道者として懸命に働き、人々に寄り添いましたが、そんな中でも、主ご自身を見ていました。それこそ、パウロが最も大切にしていたことだったのでしょう。そんなパウロと共に、主に祝福され聖別された恵みを思いつつ、共に恵みの主のご降誕を祝おうではありませんか。