2017 Christmas Message


神さまの約束は今も

ロマ書    1:2−6
Uサムエル 7:12−16

T この福音は……

 今朝、第一アドベントを迎えました。今年は、パウロ書簡から、イエスさまのご降誕を見て行きたいと思います。パウロ書簡では、イエスさまのご降誕について、共感福音書のような直接的記述はありませんが、それらを拾い出していきますと、当時の初期キリスト教界が抱えていた問題、中世カトリック教会時代のイエスさまの教会という本質を見失ってしまった問題、そして、現代の教会も陥りかけていると思われる、イエスさまの福音の宗教化という問題が浮かび上って来るようです。

 今朝はその一回目、ロマ書1:2-6からです。
 「―この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。―」 このハイフンで囲われた箇所は、冒頭に、「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」(1)とあるように、ロマ書全体の中心主題を「神さまの福音」とする意識を、補足するものです。それは、「御子に関することです」と、パウロは、「神さまの福音」を、その発端から解き明かそうとしているのです。


U 奇跡信仰に抗って

 ここには、イエスさまの出来事で、注目すべき二つのことが取り上げられていますが、今朝はその一つだけを見ていきたいと思います。「御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ」とあるところです。「ダビデの子孫として」とは、Uサムエル記7章に、預言者ナタンがダビデ王に神さまのことばを取り次いで、「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」(16)と言われた、「ダビデ契約」の履行を指しています。

 それは、南北に分裂したイスラエルにアッシリヤ軍が襲いかかり、北王国が飲み込まれてしまう十数年前のことです。次第に強大な帝国になっていくアッシリヤを恐れたシリアと北王国が軍事同盟を結び、そこに南王国も組み入れようと、まず南王国に攻め入ります。その戦いは南王国が勝利するのですが、同盟軍が再び南王国に攻め込もうと隙を窺っている、そんな状況の中で、預言者イザヤが南王国のアハズ王に神さまのことばとして伝えたのがこれです。「そのことは起こらないし、ありえない。ダマスコ(シリア)もエフライム(北王国)も間もなく滅びるのだから。神さまがそうされる」 そして、そのしるしとして、「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」(イザヤ7:14)と語られました。この預言はアハズの時代に実現することはなく、紀元前6-4年のイエスさまご降誕で実現したとされていますが、マタイとルカがその福音書で、「おとめマリヤより生まれ」と、これをイエスさまご降誕のこととしたのも、それが念頭にあったからでしょう。しかし、その記事を、自分たちのメシア信仰の根拠とした人たちがいます。当時、教会に入り込んでいた、処女降誕の奇跡をもってイエスさまを無罪と主張する、奇跡信仰に立つ人たちです。ヨハネは、そんな奇跡信仰をもってイエスさまに近づいた人たちに、イエスさまが「ご自分をお任せにならなかった」と記しています(ヨハネ2:23-25)。

 これは、「おとめマリアより生まれ」と、イエスさまのご降誕を視野に入れたパウロの唯一の記事ですが、パウロはここで、奇跡的なメシアご降誕という異端的神学を、断固拒否しているのです。そもそも、イザヤが用いたヘブル語の〈アルマー〉は、年若い女性を指すもので、これを〈処女〉と訳していいものかとの議論さえあるのです。しかしながら、奇跡信仰を拒否したとしても、イエスさまがされた不思議を否定しているのではありません。ただ、その奇跡をもって、それをイエスさまの福音であるとするなら、奇跡に合理的解釈を施して、イエスさまの不思議をないものとすることと同じではないかと。イエスさまの何者かを規定するのは自分たちだ、とするのは思い上がりではないか。それはまさに、福音の宗教化と言えるのではないでしょうか。

 パウロは、初期教会のイエスさまを信じる信仰が、次第に奇跡信仰に陥って行く様子を、苦々しく見ていたようです。彼は、教会に入り込んでいた奇跡信仰を、ぶどう酒と酩酊の神ディオニュソス(ローマ名バッカス)や豊穣の大地母神キュベレの、ドラやシンバルを鳴らしてエクスタシーに陥る(Tコリント13:1)それと同じではないか。イエスさまの福音を信じる信仰は、断じてそんなエクスタシーによる奇跡信仰ではないと、切り込んでいるのです。


V 神さまの約束は今も

 ですからパウロは、「この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです」と、それを第一に掲げました。イエスさまのご降誕は、何よりもまず、神さまの約束であったと……。「御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ」との宣言は、その意味で聞かなければなりません。その約束は、聖書(旧約聖書)に刻印されています。預言者たちのことばも「聖書」という枠組み内にあるのですが、ことさら「預言者たち」を取り上げたのは、聖書全体が預言者たちのことばによるのだという、パウロの意識なのでしょう。近代神学にもそれが認められるようになって来ました(参考:フリーゼン「旧約聖書神学概説」)。パウロは、その刻印された神さまのことばを、大切にしたのです。パウロが格別に旧約聖書に触れたのは、教会に入り込んでいた異端思想が、大切にすべき「神さまのことば」に聞くという、ユダヤの伝統から外れていたからなのでしょう。ところが、ユダヤ人たちは、聖書のことばを大切にしてはいましたが、それは建前で、次第に、ラビたちの語録であるミシュナやタルムッドを、ユダヤ教聖典として聖書の上位に置くようになります。聖書を深く読みもせずに盲信することも、否定することも、神さまのことばを軽んじることではないでしょうか。

 パウロは、処女降誕を、肯定も否定もしていません。そもそもそれに触れていないのです。マリアに深く関わることで、イエスさまだけに向かうべき信仰が、別の方向に向かうリスクを感じていたのかも知れません。「マリア信仰」は、中世から現代にまで尾を引き、カトリック教会の信仰体系に組み込まれました。パウロは、そんな後世のことなど知る由もありませんでしたが、福音が宗教化していくことの危険性を、よくよく承知していたのでしょう。

 パウロは、「ダビデの子孫として生まれ」と、ダビデ契約に拘りました。それは、イエスさまを信じる者たちが、神さまの前におけるダビデの姿勢に倣うことでした。Uサムエル記7章の「ダビデ契約」で、ダビデは、預言者ナタンのことばを聞いてこう答えました。「あなたはご自分の約束のために、あなたのみこころのままに、この大いなることのすべてを行ない、このしもべにそれを知らせてくださいました。それゆえ、神、主よ。あなたは大いなる方です。私たちの耳にはいるすべてについて、あなたのような方はほかになく、あなたのほかに神はありません」(同7:21-22) 「このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です」とあります。このクリスマスに、その約束を聞き直し、感謝と賛美を新たにしたいではありませんか。


* このクリスマスに、嬉しいニュースが飛び込んで来ました。北朝鮮に拉致されている横田めぐみさんのお父さま滋さんが、この10月に洗礼を受けてクリスチャンになられたそうです。早紀江さんはずっと以前から信仰を持たれていました。