2016 Christmas Message


心からの賛美と感謝を

ピリピ書 2:6−11
詩篇 23:1−6

T 信仰のスタートライン

 クリスマスおめでとうございます。
 今朝は今年最後の聖日・年末礼拝ですが、同時に、主のご降誕を覚える礼拝の日でもあります。今年も一年、聖日礼拝を守り続けることが出来、その最後を、主のご降誕を祝う礼拝で締め括ることが出来るのは嬉しいことです。今年のクリスマスは、その意味を確立して現代にまで踏襲された、パウロにおける「イエスさまご降誕」を聞いていきたいと願い、その神学から、「遣わされて世に来られたお方」、イエスさまの中心的呼称となった「救い主」、「主」を見て来ました。このパウロ神学の「イエスさまご降誕」に、彼がどのような思いを込めたのか、今朝は、彼が最も中心としたところに辿り着ければと願います。

 今朝は12月25日ですが、この日が「クリスマス」として制定されたことなど、ある意味でどうでもいいことでしょう。ただ、イエスさまのご降誕を覚えて「礼拝」が行われる、そのことに意味があるのです。今朝のテキスト・ピリピ書には、「神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです」(2:9-11)とあります。四回のアドベントを締め括る今朝のクリスマス礼拝の主題は、「礼拝」です。


U 礼拝の中心は

 「クリスマス」は「キリスト」と「マス」ということばの複合語で、「マス」はローマ・カトリック教会で行なわれているミサのことですが、このことからも、教会暦がいかにカトリック教会に由来しているかが物語られているようです。しかしそれは、プロテスタント教会が言う聖礼典であり、礼拝の中心であり、「礼拝」そのものなのです。ですから「クリスマス」は、歴史的に見ても、礼拝が中心であるとお分かり頂けるでしょう。今朝のテキスト・ピリピ書は、「天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためである」と言っていますが、パウロは、ともに集まってイエスさまを拝する礼拝こそ、世に来られたイエスさまを覚える私たちの、信仰告白の中心と位置づけたのです。イエスさまを信じますと告白する。それこそが礼拝の中心なのです。

 山谷省吾博士は「パウロの神学」の中で、「初代教会にとって、イエス・キリストは礼拝の対象であった。それが信徒の家の小さい集会であっても、二〜三人集まる所に主キリストもいて、その中心に立ち給うたのである」と言っています。臨在される主の前に膝をかがめる。それが礼拝なのです。


V 心からの賛美と感謝を

 パウロは、「父なる神がほめたたえられるためである」と、高らかに宣言しました。コロサイ書には、「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい」(3:16)とあります。礼拝の中心にイエスさまが臨在され、私たちがそのお方を主と告白する。それは、賛美、感謝、祈り、喜びであり、イエスさまのみことばに聞くことでもあるでしょう。喜びの賛美とともに主の前に立ち上るかぐわしい信仰の香りが、会堂いっぱいに広がる……。そんな礼拝を心から喜んで下さるのは、御子イエスの父なる神さまなのです。父なる神さまが、救い主イエスさまを私たちのところに遣わして下さったのですから。私たちが主イエス・キリストの前に膝をかがめるとき、そこに父なる神さま共に聖霊なる神さまもおられ、私たちの賛美と祈りに耳を傾けて下さるのです。この一年を終えようとして、救い主なる御子イエスさまは、神さまと共に、私たちの祈りと賛美を聞いて下さり、そして、どれだけたくさんの数え切れない恵みを、溢れんばかり注いで答えて下さったかを思います。神さまから目をそむける人たちがますます増えているこの時代ですが、このクリスマスの日に、私たちは、心からの賛美と感謝と喜びを主に献げたいではありませんか。