2016 Christmas Message


信仰と誠を主に

ロマ書 10:8−17
出エジプト 3:13−15

T 信仰のスタートライン

 先週、紀元一世紀から現代にいたるまでキリスト者たちが最も大切なものとしたイエスさまの呼称(タイトル)、「救い主」について学びましたが、それはパウロに端を発したものでした。今朝は、同じようにパウロにまで遡る新約文書中最多の呼称、「主」について見ていきたいと思います。「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからである」(10:9)と語られた、ロマ書からです。

 言うまでもなく、イエスさまの出来事の中心は、「十字架」と「よみがえり」です。時間的順序では「十字架」の出来事が先ですが―それに疑義を挟む人はないでしょう―、しかし実は、弟子たちは、「よみがえり」を先に意識したのです。弟子たちは、よみがえりの事実に接したことにより、十字架はイエスさまの贖罪だったと、意識するようになりました。

 現代、一部に例外はありますが、人の死は、「消滅」と思われています。しかし、死をも支配する神さまを見ていたユダヤの預言者たちは、「死」の先を見ていました。その信仰を受け継いだパウロは、よみがえりのイエスさまにお会いして福音の使徒に変身したのですが、以後、彼は、福音の中心をイエスさまのよみがえりとし、それが全新約文書の起点となりました。十字架の神学は、そこから生まれたと言えましょう。その意味で今朝のテキストは、キリスト者の告白の中心なのです。


U よみがえりの主を

 今朝のテキストから、まず、神さまがイエスさまをよみがえらせたと信じる、「信仰」のことを取り上げましょう。信じるなら救われると、パウロはことばを継ぎました。信仰を信心と受け止める現代人は、「信じるなら救われる」を内面で自己完結するものと受け止め、それを「信心」と表現しましたが、それは決して絶対他者に至るものではありません。現代人は、この絶対他者を見失ってしまいましたが、それが現代という時代の、著しい特徴ではないでしょうか。ところが、パウロが指摘する信仰は、多くの人たちとともに彼自身もお会いした、「よみがえり」のイエスさまへの信仰であって、その証言は、唯一の絶対他者である神さまが歴史に刻まれた事実に基づいているのですから、この信仰は、神さまからの、その事実を「受け入れるか」という問いかけに、「はい。受け入れます」と応えることであると聞かなければなりません。そう信じ、告白した者たちは、イエスさまのよみがえりに与って御国に招かれると、これがパウロの言う、「救い」の約束なのです。


V 信仰と誠を主に

 神さまの前に立つときに、「イエスさまを主であると告白する」ことが求められます。それが「はい。受け入れます」と応える者たちの姿勢でしょう。「主」とは、ローマ・ギリシャの神々や歴代の皇帝にも用いられた「権威」に対する尊称ですが、ここに用いられる「主」は、かつてモーセに「わたしはある(エゴーエイミイ)」と言われた、神さまのお名前です(出エジプト3:13-15)。それは、存在を意味する欧米語のbe動詞に当たる「ある・ハヤー」が派生して「ヤハウェ・主」になったもので、パウロは、その今も実在しておられる唯一にして最高のお方のお名前を、イエスさまの称号としたのです。

 イエスさまは、父なる神さまがご自分を顕わすために送って下さった独り子であり、神さまご自身の顕現でした。創造主にして絶対他者なる神さまの全知全能とともに、その主権と愛と恩恵が人の前で「主」という人格を纏ったと言っていいでしょう。「救い主」として世に来られたイエスさまを、全身全霊を込めてひれ伏し、賛美し、感謝と敬意と愛と信仰とを込めて仰ぎ見つつ呼ぶ、それが、並ぶ者なく輝く栄光の主、権威と全能の主、救いと審判の主、教会の頭にして永遠から永遠に至る唯一の絶対他者・「主」であると、そんな思いが込められた「主」なのです。そんなイエスさまの呼称「主」を語り尽くすことは出来ませんが、このクリスマスに、私たちのところにおいで下さった主に、私たちの信仰と誠を心より献げようではありませんか。