2016 Christmas Message


新しい希望の喜びに

ピリピ  3:17−21
ハバクク 3:17−19

T 主の呼称、「救い主」と

 遣わされて世に来られたお方・イエスさまを最も良く示して来たのは、その呼称でしょう。新約文書はイエスさまに多くの呼称を用いていますが、その数少ない呼称の中に、「救い主」(ソーテールまたはソーテーロス)があります。その呼称「救い主・ソーテール」は、パウロ文書に六回出て来ますが、近代の批評的聖書学者たちは牧会書簡などをパウロ文書とは認めていませんので、パウロ書簡としては、今朝のテキストの「救い主」が唯一のもので、この呼称はおもに一世紀末、イエスさまの極めて重要な呼称として定着したとされています。けれども、福音主義陣営は、ロマ書からピレモン書までの13通を、パウロ書簡とする伝統的見解に疑義を挟んではいません。が、いづれにしても、初期キリスト教時代から現代に至るまで、イエスさまの中心的呼称とされて来た「救い主」は、パウロを発端としているのです。そのパウロ神学を引き継いだルカは、「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」(2:11)と伝え、それは、クリスマス毎に読まれながら、今日も多くの人たちの信仰告白として輝いています。今朝は、このパウロがイエスさまの呼称とした「救い主」について、見ていきたいと思います。


U 十字架の主を

 この「救い主」という呼称の、極めて重要な位置を占めるテキストに、ピリピ書の「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」(ピリピ3:20)があります。ここには、イエスさまがやがて来られるお方として描かれていますが、それだけでなく、イエスさまは現在的な意味においても「救い主」であるという告白が、その将来的展望の奥に隠されているようです。それは、パウロ神学が、イエスさまによる罪と死からの救いを、中心主題としているからなのでしょう。私たちが、イエスさまに向かって、「主よ、あなたは私の救い主です」と現在形で告白するのは、何よりも、そこに十字架のイエスさまを見るからなのです。イエスさまは私たちのこの世に来られました。マタイやルカが「おとめマリヤより生まれ」(使徒信条)と書き記し、クリスマスはその意味で祝われて来ましたが、イエスさまがこの世に来られたのは、十字架に死ぬためでした。そんな、十字架の死に向かって歩むために人となられたイエスさまご降誕を、ケーキやクリスマ・スツリーで陽気に祝うことは、本当にふさわしいことでしょうか。クリスマスは、イエスさまご降誕の記念日として祝うことでは、断じてありません。


V 新しい希望の喜びに

 「救い主」の呼称は、ギリシャ社会ではよく知られていました。ゼウス、ポセイドン、ヘラクレス等の神々も救い主でしたし、カイザルは全世界のソーテール、アウグストゥスは人類のソーテールと呼ばれていたのです。しかし、旧約聖書にある呼称「救いの神」の訳語に、七十人訳がソーテールを当てたことから、パウロは、十字架の主イエスさまを”唯一にして真の”という意味を込めて、「救い主」と呼びました。ハバクク書に「私の救いの神にあって喜ぼう」(3:18)とありますが、ルカがマリヤ賛歌にこれを、「わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます」(ルカ1:47)と引用したのは、パウロ神学を引き継いだからなのです。未だにイスラエルの伝統を引きずっていたキリスト教会に、パウロは、よみがえりのイエスさまに「救い主」の呼称を冠せ、「我らの主・我らの神」と、新しい「恩寵の神学」を打ち建てたのです。十字架とよみがえりの主は、私たちを罪と死から救い、主の民として歩む新しい希望になって下さいました。その救い主がもう一度私たちのところに来られると、その使信をパウロは、わくわくしながら語っています。私たちを御国に迎えるためにと……。ヨハネ福音書に、「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのところに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」(14:3)とあります。クリスマスは、そこに焦点を合わせつつ迎える、信仰に希望と喜びを加える日ではないでしょうか。