2016 Christmas Message


遣わされたお方を

ロマ  3:21−22
イザヤ 40:3−11

T 新時代の到来を

 実は、今年のアドベントは11月27日から12月24日までで、25日が降誕節なのですが、もともとプロテスタント教会は、ローマ・カトリック教会の教会暦(典礼暦)をクリスマスやイースターなど一部を踏襲しているだけですので、今年は12月25日が最後の日曜日ということもあって、私たちの教会では、アドベントをこの4日の礼拝から始め、12月25日を降誕節礼拝と年末礼拝に兼ねることにしました。

 このところ、クリスマスのテキストを、その時々の講解説教に合わせて来ましたので、今年は、パウロ書簡から見ていくことにします。一回目は、ロマ書からです。「今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。」(ロマ3:21) パウロは、マタイやルカが詳細に記したイエスさまご降誕の出来事には全く興味を示していません。ですから、パウロには「降誕」という意識はないと思われていますが、そもそもヨハネの「(イエスさまが)世に来られた」とする神学の発端は、パウロに見られると言っていいでしょう。その意味でパウロは、ロマ書3:21のことばをもって、新時代の到来を宣告した(山谷省吾「パウロの神学」)と言われています。


U 時の満ちるに及んで

 パウロだけではありませんが、特にユダヤでは、イエスさま以前の世界は、律法の時代であると意識されて来ました。律法はもともと、遵守するように求められた神さまのことばであり、それを守ることで、神さまの祝福である平安を保証されるものでした。ところが、律法学者たちは、神さまが求めない細かな規定を幾つも作り上げて、それを守るように民衆に強要したのです。神さまが求めた律法は、基本律法とされる十戒に代表されるように、守ろうとすれば守れるものでした。それなのに、人間の思惑を盛り込んだことで律法は、守ることが不可能になってしまいました。その結果、律法を守ることが出来なくなったユダヤ人社会は、罪と死が支配する暗やみを産み出してしまったのです。パウロは、「律法によっては、罪の自覚が生じるのみである」(ロマ3:20口語訳)「律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである」(同5:20)と言いましたが、増し加わった罪が充満し、神さまの目には、人々の罪が行き着くところまで行ったと映ったのでしょうか。「時の満ちるに及んで、神は御子を女から生まれさせ、律法の下(もと)に生まれさせて、おつかわしになった」(ガラテヤ4:4口語訳)とあります。

 御子とは、言うまでもなくイエスさまのことです。処女降誕や馬小屋、東方の博士たちのことには触れられていませんが、先在のロゴス・イエスさま(ヨハネ1:1-18)は、父なる神さまに遣わされて、私たちの世に来られました。これがパウロの言う、「イエスさまのご降誕」なのです。


V 遣わされたお方を

 今朝のテキストには、「律法と預言者によってあかしされて、神の義が示された」とあります。「義」はもともと律法遵守で実現する正義でしたが、パウロは、「預言者」を登場させることで、その義の世界に至る新しい道筋が提供されたのだと言います。それは特に、第二イザヤと呼ばれるイザヤ書後半に言及されていますが、その発端の40章には、バプテスマのヨハネに始まるメシアの到来が取り上げられていて、神さまの「愛」の予感に溢れています。人々が律法を守ることが出来ないからと言って、パウロは、律法を否定してはいません。むしろ、律法があったから、罪を覚えることが出来たのだとさえ言っているのです。「罪のいや増すところ、恵みもいや増すのである」(ロマ5:20文語訳参考)と、これがイエスさまを迎える者たちの辿る方向ではないかと……。イエスさまは、「神さまの義」となるために、その罪を赦す恵みを持って来られました。パウロは、預言者の使信を継承したと言っていいでしょう。今朝のテキストは、「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それは信じる人に与えられる」(22)と続きますが、律法ではなく、イエスさまを信じる信仰を整えることが、私たちのイエスさまご降誕を迎える備えになっていくのです。サンタクロースやプレゼント等に踊らされることなく、このクリスマスを、イエスさまを見つめる信仰を整えつつ迎えたいではありませんか。