2008 Christmasu Message



2016年・受難週2

主を見て喜ぶためにも

ゼカリヤ 12:10
ヨハネ  19:37

1、ゼカリヤとヨハネ、その証言は?

 先週、十字架上で亡くなられたイエスさまのすねが折られなかったと、ヨハネが、詩篇34:20を引用し、「聖書のことばが成就した」と記したところを見ました。それは、イエスさまを十字架から取り降ろすために、ローマ兵士がハンマーですねを折ろうとしたところ、イエスさまはすでに亡くなっていたので、そのすねが折られなかったことを指しています。理由はどうあれ、神さまのことばである聖書の証言は神さまが計画し決定されたことですから、その決定が先にあってそうなったのだと、聞かなければなりません。

 ここでヨハネは、ある意図をもって、もう一つの聖書の箇所を引用しました。今朝はそのところを見ていきたいと思います。「また聖書の別のところには、『彼らは自分たちが突き刺した方を見る』と言われている」(19:37)とあるところです。

 これは、「彼らは、自分たちが突き刺した者(である)、わたしを仰ぎ見る」とある、ゼカリヤ書12:10からの引用です。この「わたし」はイエスさまのことであるとして、ヨハネは、「兵士のうちの一人がイエスの脇腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た」と目撃したことに、ゼカリヤの預言を重ねました。これもまた神さまのご計画であって、神さまが定められたことである、と聞かなければなりません。

 しかしヨハネは、目撃した事実を、すでに起こった出来事としてではなく、ゼカリヤが預言した通りに、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る」と、「彼らは〜見る」に比重を置いた、未来形の言い方にしているのです。それは実際に、ヨハネやマリヤなど、十字架のそばにいた人たちによって目撃されたことでしたが、ヨハネはこれを単なる過去の出来事とはしていないようです。それでは、「彼らは突き刺した方を見る」とは、どういう意味なのでしょうか。ゼカリヤが預言した時代とヨハネがそれを受け止めた時代には何百年もの開きがあり、背景も全く異なっています。果たしてそれらは、重なり得るのでしょうか。


2、預言者の目をもって

 ゼカリヤ書は、バビロニヤ帝国を滅ぼしたペルシャ王クロスの時(前536年)に、バビロン捕囚のユダヤ人たちが赦免されてイスラエルに帰還し、エルサレム神殿再建に取りかかるのですが、近隣諸国の反対があって一時中断した工事が、15年後のダリヨス1世の時に再開し、その完成(前516年)前後に、前半と後半の二部に分けて書かれたようです。神殿が再建された後期に、ユダヤでは、以前より小さくなったとはいえ、国の中心である祭儀が次第に形を整え機能して来た中で、帰還した者たちと残っていた者たちとの間に、土地の分配や権利の問題で不満や争いが生じ、神殿再建に尽力した指導者たちに反抗する者たちが出て来ました。そんなことから、再建に功績のあったダビデ王家の末裔ゼルバベルや大祭司ヨシュアが表舞台から姿を消すのですが、代わって指導者(牧者)となった者たちの不正が続いていたようです。神さまの恵みとあわれみによって捕囚の地から帰還し、国が再建されたというのに、神さまのことが忘れ去られていました。さらに、近隣諸国の敵意もあって、国は再び乱れ始めます。特に、後期ゼカリヤ書と呼ばれる9章以降は、混乱期に差し掛かったイスラエルを描いているようです。そんな中で、ゼカリヤは、神さまから「牧者」に任じられました(11:4)。

 預言者に、そして、牧者に任じられた者の目をもってゼカリヤは、「見よ。主はツロを占領し、その塁を打ち倒して海に入れる」(9:4)、「見よ。わたしは、人をそれぞれ隣人の手に渡し、王の手に渡す。彼らはこの地を打ち砕くが、わたしは彼らの手からこれを救い出さない」(11:6)など、神さまの選びの民に手を挙げようとする近隣の諸国と、乱れ争うユダヤ人たちに、神さまの厳しい裁きのメッセージを語ります。


3、主を見て喜ぶためにも

 「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く」(12:10)とこれは、「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ロバに乗られる。それも、雌ロバの子ロバに」(9:9)とともに、イエスさまを指し示す、ゼカリヤ預言の中心メッセージなのでしょう。ゼカリヤは、バビロン捕囚の悲哀に耐えて来た預言者です。その中で神さまが遣わされる方・メシアを待ち望む信仰が芽生えたことを、知っていました。

 彼は祭司でしたが、預言者としてバビロン捕囚中に民を教え、シナゴグの礼拝で神さまのことばを取り次いだ、指導者の一人と思われます。詩篇や箴言などの編集にも携わって来ました。ですから彼は、神さまの側に立って、「(混乱を招いた者たちが)突き刺した方」は、彼らが裏切り反抗した方であると、預言者、牧者、啓示者として召し出された者の目をもって、鋭く洞察したのではないでしょうか。ヨハネは、「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く」(黙示録1:7)と証言しましたが、これは終末の出来事なのです。ゼカリヤは、ヨハネが幻のうちに見たその光景を、同じとは言えないまでも、感じ取りました。ゼカリヤもヨハネも、神さまのことばを取り次ぐ啓示者として、召し出されたのです。先週、「聖書は歴史を貫く」と言いましたが、神さまのことばは、時間や空間が離れていても、人々の心の中までも見通し、恵みと裁きは、計画された通りに実現されるのです。ですからヨハネは、確信をもって、「『突き刺した』という聖書のことばがイエスさまにおいて成就した」と、ゼカリヤの預言をイエスさまに重ねました。「彼ら」は、決して当時のユダヤ人だけではありません。終末の日に、十字架の傷跡も生々しいイエスさまを見上げて嘆かなければならないのは、現代の私たちでもあります。聖書のことばは、歴史を貫いているのです。イエスさまを見上げて喜ぶためにも、十字架の主を、「わが主、わが神」と信じる者になりたいではありませんか。