2015 Christmas Message


祈りと賛美と信仰を

Uサムエル 7:18−29
                               ルカ  2:10−11

T 私たちは造られた者

 クリスマスおめでとうございます。今年のクリスマスは、Uサムエル7章から、「とこしえに続く」といわれる神さまの新しい約束、「ダビデ契約」と呼ばれる預言者のことばを聞いて来ました。その約束を聞くことで、「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」(ルカ2:11)と、クリスマスを迎えるごとに聞いて来たみことばが、一層強く心に響いて来るのではないでしょうか。今朝は、その共鳴するところを、ダビデの思いの中に探ってみたいと思います。

 今朝のテキストはダビデの祈りですが、ここにはいくつかのダビデの思いが強調されています。二つ取り上げていきたいのですが、その前に、「神さまと人間」について、イスラエルが他民族とは全く違った神学を持っていたことに触れておかなければなりません。これまで何度も、イスラエルは近代的なオリエントの、特にカナン文化に魅せられていて、その文化を取り入れようとして来たと触れました。神殿建設は、その希求の中心と言えましょう。しかし、オリエントは、エジプトやギリシャも同じですが、「人間は神の子孫である」とする宗教文化を有しています。ところがイスラエルでは、人間は土で象られていのちの息を吹き込まれた神さまの被造物である、とする国家神学を原点としています。イスラエルは、その創造者の恵みによって生かされて来た、と覚えて頂きたいのです。


U 主の前にへりくだっ

 最初に見たいことの一つは、「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのか」(18)というものですが、ダビデのこの思いは、私たちは神さまに造られた者であるという、伝統的なイスラエル神学を踏襲した告白です。被造物が創造者に向かってあれこれと言うことは出来ません。これは、「神、主よ。この私はあなたの御目には取るに足りない者でした」(19)や、「あなたはこのしもべをよくご存じです」(20)というところにも見られるでしょう。神さまというお方は徹底的に高いところにおられ、その方の前でダビデは、徹底的に低くされているのです。パウロは「私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。私はほんとうにみじめな人間です」(ロマ7:14、24)と告白しましたが、神さまの前に立つとき私たちは、そのように立たなければなりません。そのように立つなら、現代の多くの問題は、個人や国家を問わず、その大部分が解決するのではないでしょうか。心からへりくだったダビデのそれは、彼の信仰と言っていいでしょう。その信仰こそが、現代人に求められているのです。


V 祈りと賛美と信仰を

 ダビデの祈りを通して預言者が強調したもう一つのことは、高くいましたもう神さまを賛美した、彼の信仰姿勢でした。「神、主よ。あなたは大いなる方です。私たちの耳にはいるすべてについて、あなたのような方はほかになく、あなたのほかに神はありません」(22)、これは礼拝であり、賛美でしょう。そして、この賛美は、「あなたは彼らの神となられました」(24)、「あなたの御名がとこしえまでもあがめられ、『万軍の主はイスラエルの神』と言われますように」(26)、「今、神、主よ。あなたこそ神であられます。あなたのおことばはまことです」(28)と、繰り返されます。

 「神ご自身が来られて、この民を贖い、これをご自身の民とし、これにご自身の名を置かれた」(23)とありますが、これは実に暗示的です。ダビデはイスラエルの歴史に介入された神さまに思いを馳せているのでしょうが、「神さまが来られた」とこれは、私たちにとって、イエスさまのことであると聞こえてきます。十字架に掛かり、私たちの贖いとなってくださるお方が世に来られたのだと……。このダビデの祈りには、王家への祝福を願う部分もありますが、そんな打算を超えて、心からの賛美が神さまに献げられていると聞かなければなりません。そのところを、私たちもダビデに倣いたいのです。祈りと賛美を献げたダビデは、そこに彼の信仰を献げたのでしょう。クリスマス礼拝を迎え、私たちの信仰を主に献げる、それこそ、救い主イエスさまのご降誕を祝うにふさわしいことではありませんか。