2015 Christmas Message


実を結ぶ信仰に

Uサムエル 7:13−16
ルカ  1:30−33

T 没落してなお約束が

 先週、「ダビデ王国」はとこしえに続くと聞きました。「彼はわたしの名のために、一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる」(13)と、これはもう一度繰り返されます。「わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。……わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、取り去ることはない。あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」(14-16) この「ダビデ契約」と呼ばれる中心は、16節なのでしょう。

 「彼」とはダビデの子ソロモンのことですが、彼の時代にイスラエル統一王国は、空前絶後の繁栄を誇りました。ところが、ダビデ王朝が統治した南王国は、南北王朝分裂後347年経ってバビロン侵攻により滅亡し、やがて、捕囚となっていた者たちが、王家の末裔とともにエルサレムに帰還して来ます。しかし、いつ頃のことでしょうか。ダビデ王家は没落し、その末裔ヨセフは、ナザレの大工として、見る影もないほど落ちぶれています。ところが、恐らく、そんな歴史上の出来事を目撃し、その出来事を把握していた預言者の証言が加わってのこと思われますが、そんな切り株のようなダビデ王家に、「とこしえまでも堅く立つ」と、神さまの約束が語られたのです。


U 永遠に思いを馳せて

 この16節には、預言者ナタンの筆と、後代の記述預言者の編集によると思われる並行記事にイスラエルの公式記録T歴代誌17:14があります。そこでは、「わたしは、彼をわたしの家とわたしの王国の中に、とこしえまでも立たせる。彼の王座は、とこしえまでも堅く立つ」と修正されていて、イスラエルは神さまの王国であると言われているのです。いろいろと問題のありそうな修正ですが、その意味するところを探ってみたいと思います。

 一つのことは、もともとイスラエルを統治していたのは神さまであって、王制はイスラエルが取るべき統治方法ではなかったのに、それが王制に変わったのは、カナンの国々のようにと人々が願ったからという点です。神さまは、「王を願うことは、わたしを退けることなのだ」(Tサムエル八章)と拒否しますが、人々の執拗な願いにより、王制が実現します。しかしながらT歴代誌17:14では、神さまがこのダビデ王国をご自分のものと認知し、「とこしえまでも堅く立つ」と言われるのです。そのように認知されますと、そこに「とこしえまでも……」が加えられても、何らおかくしくはありません。そこには、神さまの永遠性が投影されているからです。もともとイスラエルには、神さまの永遠性に思いを馳せる信仰がありました。イスラエル民族の信仰は、そんな神さまの永遠性の中で育って来たと言えるでしょう。詩篇には、そんな描写がたくさん(詩篇9篇など)出て来ます。


V 実を結ぶ信仰に

 ところが、その王国が地上にとなると、少々意味が違って来ます。イスラエルの人々は、地上を這い回るような現実を意識し過ぎたのかも知れません。律法を基調とする国家神学・「シナイ契約」の中で、神さまの叱責を恐れ、イスラエルはひたすら律法遵守に精力を費やしました。その傾向は、ユダヤ戦争後の後期ユダヤ教に強く、ついに彼らは、律法主義へと走ってしまいます。イエスさまご降誕の頃は、そんな傾向がとりわけ濃厚になっていました。ユダヤ人は、律法主義に走って神さまの永遠性を侵害した自分たちの咎をイエスさまに転化し、告発したのです。しかし、告発されて十字架に掛けられたイエスさまは、ご自分を信じる者たちとともに、「とこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがない」(ルカ1:33)と、神さまからの永遠性を約束されたダビデ王国を継承し、天の御座に着かれました。イザヤ書に「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」(11:1)とありますが、救い主として世に来られたイエスさまは、実を結ばれたのです。そしてその実は、「ダビデ契約」を遺した預言者の系譜に属する使徒たちや宗教改革者など、多くの先輩たちが積み上げて来た、信仰遺産の中に見られるではありませんか。私たちも、その実を結ぶべく、信仰をリセットされつつ、このクリスマスを迎えたいものです。