2008 Christmasu Message



2015年・受難週

ご自分を十字架に


ヨハネ 11:33
詩篇 22:1−8


1、受難週を迎えて

 今年も受難週を迎えました。2月18日「灰の水曜日」に始まった、日曜日を除く、イースター前日まで40日間のレントの期間は、主の十字架とよみがえりを覚え、古くから祈り、断食、慈善の期間とされて来ました。レントはゲルマン系の言葉で「春」を指し、迎えるイースターを春の祭典と位置づけてきたわけです。そのイースターまでの一週間は、イエスさまが十字架におかかりになった最後の一週間、受難週です。今朝はその受難週にちなんで、講解説教でも取り上げましたが、少々消化不良だったところを探ってみたいと思います。ヨハネ11章33節からです。ラザロの死に接して、「イエスは、彼女(マリヤ)が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じた」とあります。

 「霊の憤りを覚え」とある、イエスさまの「憤り」に的を絞っていきたいと思います。これは、少し前に取り上げたばかりですが(ヨハネ講解説教50)、繰り返しておきましょう。邦訳が、口語訳は「激しく感動し、また心を騒がせ」、新共同訳は「心に憤りを覚え、興奮して」、岩波訳は「心の深いところで憤りを覚え、かき乱され」、キリスト新聞社訳は「深く心を痛め、悲しんで」などと、いづれも訳出に苦労している難解なところですが、その中心は、いづれも「憤り」のようです。ところが、イエスさまが何に憤られたのか、諸説あって、なかなかつかみづらいところです。その憤りを、古き良き時代のプリンストン神学校校長・アメリカの改革派神学者B.B.ウォーフィールドは、イエスさまが「死と死の背後にあって死の力を持つ者」に激しく怒り、武者震いしつつ戦いを挑んだと指摘しているそうですが、その通りなのでしょう。先在のロゴスが遣わされ、天上から地上の私たちのところに来られたのは、その「死の力」を滅ぼし、私たちの悲惨と苦難の最も奥深い原因を取り除くためでした。


2、神さまの怒りが

 この「イエスさまの憤り」に、少々消化不良の部分があったと言ったのは、これが神さまご自身の怒りだったという部分に触れていなかったためです。イエスさまの憤りは神さまご自身の怒りに起因している、というところから見ていかなければなりません。もともと「人の死」は、神さまが創造されたアダムとエバが罪を犯したために、人の中に入り込んで来たものでした。創世記にこうあります。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないと、わたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。……あなたは、顔に汗して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」(3:17-19) 以来、「死」は人々を虜にし、人間は一人としてそこから逃れることはできなくなりました。人の苦労や哀しみ、人との諍いや不調和も、そして、わずかばかりの「良い暮らし」を願う欲望さえ、入り込んで来た「死」のゆえに、罪に起因し、犯した「罪」と「死」への恐怖は、さらなる新たな罪を引き起こしていくようになりました。罪と死は、神さまと永遠のいのちを見失った者が陥る、悪しき連携と言えましょう。神さまの言いつけに逆らって罪を犯し、死の虜となったアダムとエバ、その罪と死は、現代の私たちにも襲いかかって、逃れられない人間の宿命となりました。「罪の支払う報酬は死である」(ロマ6:23口語訳)と、パウロも言っています。神さまの怒りは、何よりも「罪」に対してであると言っていいでしょう。パウロはまた、「不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されている」(ロマ1:18)とも言っています。争いと混乱に陥り始めた現代に生きる私たち、心して聞かなければならないことばではないでしょうか。


3、ご自分を十字架に

 神さまを見失った結果、人間は「死」を恐れながら、しかし、他人の死に対しては鈍感、無頓着で、大昔から、憎しみ合い、殺し合いをして来ました。その傾向は、「イスラム国」の台頭や、レーダーでコントロールする無人機による攻撃などもあって、近年、強まって来たようです。他人の死に痛みを感じない。「罪」とはそういうものなのでしょう。神さまの怒りはその罪に向けられますが、神さまの本来のご性質は、「怒り」ではなく、「愛、恵み、憐れみ……」なのです。いや、怒りさえ、神さまの「聖」なる部分から流れ出たものなのでしょう。何としても罪から離れようとしない人間に、神さまは恵みの御手を伸ばされ、御子イエスさまを遣わされました。人間の、罪から神さまへの回帰を願ってのことです。しかし、覚えておかなければなりません。恵みを前面に押し出されたからと言って、神さまは、その怒りをお捨てになったわけではありません。神さまの聖なる怒りはイエスさまが負われました。イエスさまは十字架に死なれ、その死によって、滅ぶべき私たちが死から贖われたのです。御父はその怒りを御子に向け、御子の「死と死の背後にあって死の力を持つ者」への憤りは、ご自分を十字架につけることに向けられたと言えましょう。預言者イザヤも、苦難のしもべ章句と呼ばれるところで、「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する」(53:11)と言います。その苦難と死は、本来罰を受けて死ななければならない私たちに代わってのことでした。その受難が、罪なき方が罪に定められた苦悩であり、御父に見捨てられた哀しみだったことを忘れてはなりません。イエスさまの憤りは、神さまの怒りが向けられた十字架の哀しみの中で解消されたのです。それこそ、私たちのところに遣わされた、イエスさまの目的でした。「我が神、我が神、なんぞ我を見捨てたもうや」(マタイ27:46、詩篇22:1)と、十字架上で叫ばれたイエスさま。そのお苦しみは私たちの「罪」のためであったと、イエスさまの哀しみを思い、イエスさまを信じる信仰をもって受け止めようではありませんか。