<イースター>



2015年・復活節

よみがえりといのちの主を

ヨハネ 11:25−26
ダニエル  12:1−7


1、ヨハネの証言として

 イースター、おめでとうございます。
 このところずっと、ヨハネ福音書の講解説教で、マルタやマリヤのことも含め、ラザロよみがえりの記事(11章)を扱ってきました。それは、単なるイエスさまの奇跡ではなく、ご自身の十字架とよみがえりに関わることなのだと、ヨハネは、イエスさまのことにも触れましたが、その中心主題となったマルタへの宣言、「わたしはよみがえりです。いのちです」(11:25)については、「御父と御子のすべての人を包み込む力と恩恵がぎっしりと詰まっている」と述べただけで、ほとんど説明らしい説明をしてきませんでした。このイースターに、そのことを取り上げたい。これは、ヨハネの精魂込めた証言でもあるからです。

 このテキストを、マルタの言葉も含め、関連するところをまずお聞き下さい。
 「イエスは彼女に言われた。『あなたの兄弟はよみがえります。』マルタはイエスに言った。『私は終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っています。』イエスは言われた。『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』」(24-26)

 マルタのこの言い方は、イエスさまとの会話にしては、どこか形式的でぎこちない。会話が噛み合っていないのです。その原因は、ユダヤ教が作り上げた信仰体系の復活教理を初期キリスト教会が引き継いだのであって、マルタの言い方にはその萌芽が見られると、ヨハネ福音書講解説教の中で触れました。もしかしたら、たとえマルタやマリヤにそんな要素があったとしても、これはヨハネに引き出されたキリスト者像のサンプルだったのかも知れないと、そんな想像をしてしまいます。ともあれ、ヨハネは、今、エペソ教会でのユダヤ人たちとの対話論争の中で、イエスさまはどなたなのかを、ラザロのよみがえりという臨場感溢れる現場を背景に、「イエスさまはよみがえりです。いのちです」と証言しているのです。それは、ユダヤ教から引き継いだ公式化された教理とは比べものになりません。その辺りのヨハネの意識から聞いていきましょう。


2、「わたしはある」というお方が

 当時の「後期ユダヤ教」(紀元70年のユダヤ戦争以降)では、イスラエルの「聖なる書物」として別格だった旧約聖書(彼らには旧約という意識はない)よりも、ラビたちの語録をまとめたタルムッドやミシュナがユダヤ教聖典として重んじられるようになっていました。それは、復活や終末といった教理も含め、もちろん聖書に基づいています。旧約聖書には、「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに」(ダニエル12:1-7)といった証言もあるのです。しかし、中にはそうではないようなものもあります。「終わりの日によみがえる」という信仰は、「パリサイ人は復活があると言っていた」(使徒23:8)とありますから、恐らく、カナン宗教やメソポタミヤ宗教の影響を受けた民間信仰から来たものなのでしょう。すでに、初期のキリスト教グノーシス主義といった異端思想も台頭していました。先週の受難週メッセージで、教会に入り込んで来た異端思想に福音が浸食されていくことへの、それはヨハネの憤りでもあったのだろうと、そのことにわずかばかり触れましたが、「イエスさまのよみがえりといのち」は、そんな異端思想の中で、曲解、神話化され、実質的に否定されてしまったのです。現代は、そんな神話化を引き継いでしまったと言えるでしょう。

 しかしヨハネは、「ラザロのよみがえり」と、「イエスさまのよみがえり」をも彼自身が目撃し、なかんづく、「イエスさまのよみがえり」という神さまサイドの事実に基づき、「イエスさまはよみがえりであり、いのちである」と証言しました。彼が流罪先のパトモス島で執筆した「黙示録」には、「よみがえりであり、いのちであるイエスさま」のことが隅々にまで証言されています。その証言に至る主ご自身の啓示を通して、ヨハネは、「イエスさまよみがえり」の意味に辿り着いたものと思われます。それは、ラザロのよみがえりとは似ても似つかぬものでした。

 ところが、不思議なことに、彼はここで、「イエスさまはよみがえりました」と言ってはいません。「わたしは〜ある」と、存在を意味する神さまご自身のお名前の定式(出エジプト3:14)を用い、その中に「よみがえり」と「いのち」とを滑り込ませているのです。どういうことなのか、考えてみたいと思います。


3、「よみがえりといのちの主」を

 「わたしはよみがえりであり、いのちである」に見られる一つの主題は、「わたしはある」というお方・イエスさまが、「よみがえりといのち」を所有しているということです。否、単なる所有ではなく、イエスさまは「よみがえりといのち」そのもののお方だと聞かなければなりません。つまり、「イエスさまはよみがえりであり、いのちである」と言うことで、イエスさまは「死」に囚われることのない永遠の存在であると、それを二重の証言にすることで、明らかにしたのです。「二重の証言」とは、「わたしはある」と「よみがえり、いのち」を合体させ、それをイエスさまに帰し、イエスさまは聖なるお方であると証言したことを指します。それは、ヨハネの信仰告白であって、ユダヤ人たちが最も警戒した、「イエスさまは神さまご自身」という主張と信仰を弁証するものでした。この「よみがえりといのち」のことばを高らかに掲げ、異端が荒らし回る迫害と殉教の時代に、敢然と立ち向かう神学者・ヨハネの戦いを彷彿とさせてくれるではありませんか。イエスさまを信じる信仰は、ある意味で、そのようにイエスさまの証人として勇敢に立ち上がることなのでしょう。

 そして、「わたしはよみがえりであり、いのちである」に込められたもう一つの主題は、これがイエスさまの宣言であるということです。いや、もっと正確に言うなら、これをイエスさまの宣言であるとした、伝道者としてのヨハネの意識です。宣言とは「啓示」であって、私たちには、その啓示を聞くことが要求されます。聞く者が「よみがえりといのち」に与ることで、「死」から解放され、神さまの御国にゴール・インする者となるのだと。ヨハネは、イエスさまから直にそう聞いて、それを神さまご自身であるお方からの啓示と受け止めたのです。それは、彼の信仰でした。ですからヨハネは、彼のメッセージを聞く者、それは、迫害と殉教の時代に向かうエペソ教会の人たち、あるいは、各地でたくさんの血が流され始めた現代の私たちなのかも知れませんが、その聴衆に、自分と同じようにイエスさまの啓示である宣言を聞き、「死」から解放されて、神さまの御国に招かれる者となって欲しい。そして、時代の潮流に敢然と立ち向かい、戦って欲しいと願ったのでしょう。イエスさまは十字架におかかりになり、よみがえることで、私たちの死と、死からのよみがえりの先駆けとなって下さったのです。

 ですから、私たちは、救い主の前に膝をかがめるこのイースター礼拝に、「主はよみがえりであり、いのちである」という賛美を加えたい。それも私たちの信仰告白なのですから。この時代にそのように立ちつつ礼拝を守ることは、私たち信仰者の戦いなのだと受け止めて頂きたいのです。私たちの新しいいのちが具現化していくのは、終末時の苦難とよみがえりをくぐり抜けてのことなのでしょう。その時がいつになるのか、私たちには分かりません。神さまの時なのですから。しかし、やがて私たちに必ず訪れる死は、イエスさまを信じて頂いた新しいいのちを損なうものではありません。このイースターに、頂いて御国の民とされた新しいいのちをもって、「よみがえりといのちの主」を心から賛美しようではありませんか。