2008 Christmasu Message



2014年・受難週2

十字架の彩りを

ヨハネ 3:14−16
イザヤ 53:10−12

T お与えになった

 受難週を迎えました。先週、十字架は主の恵みといのちが溢れ出た出来事であったと聞きました。今朝は、イエスさま受難を彩る新約聖書最大の記事、ヨハネ3:16から聞いていきたいと思います。

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」 いくつかのことを考えていきたいのですが、一番目は、「ひとり子をお与えになった」からです。この福音書には、イエスさまが世に「来た」とか「遣わされた」という表現が多いのですが、この箇所では「与える」(この福音書ではここだけ)ということばが用いられて、「来た」とか「遣わされた」とは明確に一線を画しています。「与える」は新約聖書に600回以上用いられており、別に特別なことばではなく、現代風に、有償、無償の「譲渡」と理解していいでしょう。しかしこれは、譲り受けた側の完全な所有物になるという、極めて古典的な意味を含んでいます。「与えられる」のは物ではなくイエスさまのいのち(1:4)ですから、所有した者がその生殺与奪権を持つ、古典的な奴隷に適用される言い方です。イエスさまが(この場合、無償で)「与えられた」のは、イエスさまのいのちであって、つまり、十字架が意図されていると聞かなければなりません。


U 仕える者の姿をとり

 イエスさまの譲渡には「奴隷として」という意味が含まれるのですが、これにはいくつもの象徴的な出来事がありました。一つは、イスカリオテのユダが銀貨三十枚でイエスさまを売り渡したことでしょう。その金高は奴隷一人の値段でしたし、後悔したユダがその金を神殿に投げ込んで自殺した後、祭司たちはそれを神殿に入れるのは良くないと、陶器師の畑を買いました。イエスさまを売った代金は、もともと神さまのものでした。結果的に、それが無償となったのです。無償からは、神さまの恵みによる私たちの救済計画が浮かび上がって来ます。本来、(罪の)奴隷だった私たち人間に、神さまは、ひとり子イエスさまを、私たちの身代わりとして十字架にお掛けになったのですが、それは、恵みであるゆえに無償でなくてはなりません。また、罪の身代わりということでしたから、イエスさまは奴隷として死ななければなりませんでした。ここに徹底的なイエスさまの卑下があります。パウロが「キリストは、ご自分を無にして仕える者の姿をとり、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われた」(ピリピ2:6-8)と言ったのは、このことを指しています。「(神さまが)世を愛された」というのは、その意味においてであると聞かなければなりません。神さまは愛するひとり子を奴隷にまで貶め、いのちさえ奪ったその愛を、私たちに注いでくださったのです。


V 十字架の彩りを

 イエスさま受難には、御子が奴隷とされ殺されるのを見ながら、手を差し伸べることも出来ない父君である神さまの痛みと哀しみがありました。そしてそこには、父君の痛みと哀しみをご自身のものとしながら、御子の「満足」(イザヤ53:11)もあったのです。なぜなら十字架は、その贖罪によって、愛する者たちを永遠のいのちに招き入れるという父なる神さまの約束だったからです。「永遠のいのち」とは、いのちの時間がいつまでも続くことではなく、先在のロゴスであった時に繰り広げられていた父君との交わりに、私たちも加えてくださることを意味しています。天上という場所がパラダイスなのではなく、それは、主とともに憩い喜ぶ光栄への招きなのです。私たちを愛してくださったのはそんな愛でした。父なる神さまとイエスさまの愛がそんな招きになり、十字架には、そんな愛が彩られています。見返りを求めない無償の愛と恵み、イエスさまご自身も、そんな父君と同じ愛と恵みを纏っておられたからなのでしょう。これはヨハネ自身が「主は私を愛してくださった」と聴いたことでした。ですから、ヨハネのこの証言は、彼の「信仰告白」なのです。これをを聞いて、そこに感謝と喜びが生まれるなら、それはイエスさまを信じる信仰でしょう。この受難週にその告白を共有し、主の愛と恵みに思いを馳せたいではありませんか。