2008 Christmasu Message



2014年・受難週

恵みといのちとを

ヨハネ  1:14
出エジプト 34:5−9

T イエス・キリストによって

 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」(14)ヨハネ福音書本文の学びでこの14節を見たとき、「この方は恵みとまことに満ちておられた」が何を指しているのかと疑問符をつけながら、解き明かしをしていませんでした。受難週を来週に控え、今朝はそのことを明らかにしたいと思います。

 第一のことです。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」とあります。「住まう」、それは、本文で学んだとき、「天幕に住む」ことを意味し、イスラエルの祭儀様式を踏襲した、神さまの啓示であると触れました。通常、啓示とは、幻または何らかの表象による神さまの意志表明のことですが、ここで言われる「住まう」は、啓示者自身が聞く者たちのところに来て、そこに住むということであり、それは、幻や表象以上の意思表明であると聞いていいのではないでしょうか。その「(私たちのところに)住まわれた」という証言をヨハネはもう一歩進め、16節では「(私たちは)恵みの上にさらに恵みを受けた」、17節では「恵みとまことはイエス・キリストによって実現した」と証言しました。ヨハネは、イエスさまを神さまの啓示と受け止め、それは私たちにとって、神さまの恵みであり、まこと(真実)であると証言したのです。

U 恵みといのちとを

 次に、「ことばは肉となった」(新共同訳)とあるところからですが、「肉」とは、滅ぶべき人間という意味でしょう。わけても、人となられたイエスさまの公生涯はわずか3年と、極めて短いのです。ある人が「ロゴスの地上以前・以後の存在と比べるなら、地上の時は間奏曲にすぎない」と言っていますが、神さまの「真実」という啓示・間奏曲は、全力を込めて演奏されたのです。神さまの「真実」は、隠されていたものが顕わになる、顕現の意味を持ちます。恵みは、神さまの一つの事象、単なる属性の一つではなく、ご自身が本来持っておられる愛に並ぶ神さまの本性そのもので、「無償の贈り物」という意味が極めて強いのです。更に「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」(4)とあるように、先在のロゴスである方のいのちそのものが、私たちの間に住まわれたと言われます。そう聞きますと、神さまの恵みという真実が、遣わされた愛しいひとり子ご自身のいのちの中に溢れていたとお分かり頂けるでしょう。その恵みといのちとを、イエスさまは、極めて短いこの地上で、私たちのために完全燃焼されました。十字架は、そのことを意味します。繰り返しますが、先在のロゴスが世に住まわれ、その満ち満ちた恵みといのちが十字架とよみがえりに凝縮されたのです。それこそ、ヨハネがこの福音書を執筆した動機であり、この福音書の中心主題であると言わなければなりません。

V 救い主への告白を

 残るもう一つは、「この方の栄光を見た」という証言です。栄光は、旧約聖書では、王や族長などにも用いられますが、新約聖書では、神さまを誉め讃えることだけに用いられます。そして、神さまの栄光は、本来、不可視的なものです。にもかかわらずヨハネは、見たと証言しました。何故、また、何を見たと言うのでしょうか。それは、この福音書でヨハネが重要な主題とした、「知っている、信じた」「知らない、信じない」という、彼流の二元論が念頭にあったためと思われます。ユダヤ人を初め、世に囚われている多くの人たちが、イエスさまを信ぜず、受け入れない。しかしヨハネは、イエスさまを神さまの恵みであるとして、その栄光を「見た」と証言しました。これは「父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」と補足されている通りです。今、恵みといのちとを、十字架上で私たちのために完全燃焼されたと聞きましたが、それがヨハネの見た主の栄光だったのでしょう。何年もかかってヨハネは、それが私たちの罪を赦すためであった、との理解(信仰)に辿り着いたのです。それがヨハネの言う啓示であり、神さまの真実=誠実ではなかったでしょうか。ヨハネは、イエスさまをそのようなお方であると告白しているのです。私たちもその告白をと、願わされるではありませんか。