<イースター>



2014年・復活節

私たちの信仰は

ヨハネ 2:19−22
イザヤ  54:7−8

T 単なる記念日としてではなく

 イースターおめでとうございます。今朝、イエスさまのよみがえりを祝う記念日を迎えましたが、二千年前のこの日にイエスさまがよみがえられたということではありません。しかし、使徒時代に始まり、4世紀初頭のニケア教会会議(AD.325)以後、西方教会の教会暦として守られてきた、この日をイースターとする伝統を、私たちも大切にして行きたいと思います。もともと、プロテスタント教会には教会の祭日というものはなく、イースターはゲルマンの春の女神に由来すると言われていますが、それくらいに受け止めて頂いていいと思います。しかし、この教会暦がいかなる内容を含んでいるとしても、これを私たちの信仰の励みと聞いていくのは、有益なことでしょう。その意味でこれを、単なるキリスト教の祭日としてはなりません。

 受難週をヨハネの福音書から見て来ましたので、今朝のイエスさまよみがえりのテキストも、それと関連し、ヨハネ2:22から見ていきたいと思います。「それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた」 ここを読みますと、「弟子たちが信じた」とある、それが中心のように感じられますが、ヨハネが細心の注意を払いながら書き記した中心部は、それだけではありません。


U よみがえられた主を

 細かなことを言うようですが、ヨハネが用いた「よみがえられた(エーゲルセー)」は異相動詞と呼ばれるもので、受動態の形でありながら意味は能動態という、特殊なものです。その不定過去受動態という形ですが、ガリラヤ湖の漁師の出で、相当な年齢になってギリシャ語世界に移住した、さほどギリシャ語の素養があったとは思われないヨハネが、これほどのギリシャ語を使い分けています。ギリシャ語を母語とする助手がいたとしても、極めて注意深くこのことばを用いたのであろうと想像します。不定過去は、過去とも現在ともとれるギリシャ語の普通の用法ですが、この言葉を選びながらヨハネは、イエスさまのよみがえりを、事実であると証言しているのです。90何歳かのヨハネは、よみがえられた主が弟子たちの前に何回も現われて下さったことを、つい昨日のことのように思い出していたのでしょう。その事実に基づいて彼は、世界に広がった異邦人教会の人たちに、イエスさまの福音の最も中心的出来事は、十字架とよみがえりであると言っているのです。しかしヨハネは、イエスさまよみがえりの事実の中に、もっと深い意味を込めているようです。


V 私たちの信仰は

 「弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた」とあります。近代自由主義神学者たちは、「弟子たちは……信じた」という証言を、よみがえりというあり得ない出来事に対する解釈として採用し、イエスさまのよみがえりは、弟子たちの思い込みの上に組み上がった信仰と位置づけていますが、弟子たちの証言は、「イエスさまは死者の中からよみがえられた」という、事実に基づいたものであることを忘れてはなりません。しかし、誤解を恐れずにあえて言うなら、たとえイエスさまよみがえりの出来事が歴史上の事実であったと証明出来たとしても、それだけでは、「世にも不思議な出来事」と片付けられるだけでしょう。しかし、これは神さまの事実なのです。「イエスが言われたこと」とは、ご自分の身体を神殿になぞらえ、「それを壊せ。わたしは三日でこれを建てる」(19)を指しますが、神殿のことは、単なるたとえ話や象徴ではなく、イスラエルの伝統的祭儀に関わることとして持ち出されたのです。それは神さまの啓示を指し示しています。イエスさまのよみがえりには、何よりも、神さまご自身が介入された救済計画の事実があったという、ヨハネの証言が込められているようです。私たちの信仰は、その神さまの事実の上に組み上げられています。それが弟子たちの証言となり、新約聖書が誕生しました。ヨハネ証言の核心部分はその告白である、と聞かなければならないのではないでしょうか。