2014 Christmas Message


私たちの世に

ヨハネ 1:14
創世記  2:7
T いのちの息を

 クリスマスおめでとうございます。
 このクリスマス・シーズンに、ヨハネ福音書からイエスさまご降誕のことを聞いて来ましたが、今朝のテキストは、ロゴス賛歌の中心でもある1:14からです。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」(14)

 「ことばは人となって」とこれは、口語訳では「言は肉体となり」、新共同訳では「言は肉となって」とあるように、「ロゴスの受肉」と呼ばれています。「人となって」とは、天上におられた栄光のお方が地上に降りて来られ、肉体を取られたという意味です。創世記には、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(2:7・新共同訳)とあります。それは、肉体を取ったその時点では単なる泥人形でしかなかったのですが、先住のロゴスにはもともと「いのちがあった」(ヨハネ1:4)とありますから、その方が神さまの息吹を受けて地上に遣わされて来たということなのです。栄光に満ちたそのいのちが、滅ぶべき肉体を纏うことで、「人の光」(1:4)になったということなのでしょう。注目すべきことがあります。イエスさまが十字架上で息を引き取られた時、マルコは「息を吐き出した(原意)」(15:27)、マタイは「霊を去らせた(原意)」(27:50)、ルカは「父よ。わが霊を御手にゆだねます」(23:46)、ヨハネは「霊をお渡しになった」(19:30)といづれも、イエスさまは、神さまが吹き込まれたいのちの息を吐き出しておられます。その息が神さまのもとに戻ったのか、どこかに消滅したのかは分かりませんが、イエスさまの十字架が、栄光に満ちたいのちを犠牲にするほどの出来事(贖罪)であったという点を、忘れてはならないでしょう。


U エゴー・エイミイなるお方のいのちを

 人間創造の記事は創世記1:27にもあり、これは別々の資料(エロヒスト資料・一章、ヤハウィスト資料・二章)が用いられたのであろうと、その真偽には異論もあり、私なども疑問視しているのですが、近代以降の聖書学では定説になっています。その定説は、一章に出て来る神さまはエロヒームだけですが、二章には、「主なる神」と、神さまの四文字のヘブル語からなるお名前(出エジプト3:14)「わたしはある、エゴー・エイミイ、主」があることによります。イエスさまは肉体を取り、滅ぶべき人の子として地上に来られて、このエゴー・エイミーを名乗られました。「わたしがそれです」(4:26等)とあるとおりです。ヨハネがこの福音書を著そうとした基本的立ち位置は、イエスさまがそのような「神の子」であるという信仰告白にあると、このクリスマス・メッセージの最初から聞いて来ました。今朝、もう一度そのことを繰り返しておきたいと思います。そのようなお方が地上に来られて「私たちの間に住まわれた」、それは、栄光に満ちた「神の子」のいのちを犠牲にするほど、私たちの罪をご自分の身に負われるためでした。


V 私たちの世に

 「住まわれた」とあります。前にも触れましたが(講解説教4)、これは「天幕に住む」というイスラエル伝統の言い方で、神さまの啓示を意味しています。啓示とは、単に使信だけを言うのではなく、啓示者がご自身を顕現される時にも用いられているのです。「天幕」は、エジプトを脱出して以来、イスラエルが聖所として来たところですが、ヨハネは、そこに住まうと約束されたお方が、私たちのところに住まわれたと言うのです。「罪に汚れ切った人の世に罪なきお方が住まわれた」とこれは、ヨハネの「あり得ない」との驚きであり、信仰告白なのでしょう。しかし、そのあり得ないことが本当に起こりました。これ自体、恵みとまことでなくて何でしょう! 十字架はその延長なのです。イエスさまは、そのために来られたのです。クリスマスは、単に「神の御子が生まれた」と世を挙げて祝うものではありません。現代はそれすらどこかに置き忘れて、ケーキとプレゼントと素敵なディナーの日でもあるかのようです。地に来られた人の子・イエスさまの原点に、思いを馳せようではありませんか。