2014 Christmas Message


ご降誕の意味は

ヨハネ 3:16−17
創世記   6:5−7
T 「人の子」はイエスさまの……

 第一アドベントの先週は、「天から下った」をキイワードに、ヨハネ福音書3:13-15から「神の子」と「人の子」というイエスさまの称号を見ました。今週はその続き、3:16-17からです。

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(16-17) ヨハネがイエスさまご降誕に言及するとき、「おとめマリアより生まれ」(使徒信条)という共観福音書の記述とは大きく異なり、イエスさまは「天から下って来て、天に帰る」本来的かつ終末的に「神の子」であると主張していて、「人の子」は、その間の地上での歩みを指していると聞きました。その「地上の歩み」を、講解説教で触れたことですが、もう一度紹介しましょう。「『ロゴスの地上以前・以後の存在と比べるなら、地上の時は間奏曲にすぎない』とある人が述べていますが、その間奏曲は全力を込めて演奏されたのです。……それは十字架とよみがえりでした。」(ヨハネ福音書講解説教4) その地上での歩みを言い表した呼称「人の子」は、イエスさまの全人格を込めたお働きを指していると言えるでしょう。


U ヨハネの信仰が

 3:16-17は、そんなイエスさま(と、イエスさまを遣わされた父なる神さま)の全てを物語っているのではないでしょうか。最初に、「ひとり子」についてです。「子」とありますから、神さまは御父であって、「これはわたしが愛する者である」という、御父と証言者・ヨハネの思いが伝わって来ます。なぜここにヨハネの思いまでが詰まっているのかと言いますと、「世を愛された」というその中に、神さまとイエスさまが注いで下さった限りない愛を、ヨハネ自身が、自分に向けられたものと、受け止めたからです。そこには、批評的神学者たちがイエスさまはナザレのイエスであって、本来的に「神の子」ではないなどと言う渇いた神学ではない、麗しい愛に包まれたヨハネの信仰がぎっしりと詰まっているのです。

 しかし、御父(神さま)のイエスさまに対する愛を考えますと、なぜそれほど愛する者を地上に送らなければならなかったのかと、そのことに思いを馳せなければなりません。地上に送る、それは十字架のためでしたから、御父は、愛するひとり子を殺すために遣わされたのです。なぜでしょうか。それは、それほどの犠牲(代価)を払わなければ買い戻すことができないほど、私たちは根深い罪の虜になっていたからです。いや、罪を愛していたと言っていいでしょう。私たちの主人は、罪なのです。神さまが最大の犠牲を払わなければならなかった原因が、ここにあります。ヨハネは、自分のために神さまとイエスさまが払って下さった愛の大きさを、ここに込めたのではないでしょうか。


V イエスさまご降誕の意味は

 もう一つ聞きたいのですが、「ひとりとして滅びることなく」「世をさばくためではなく」とそんな文言を、なぜヨハネがここに入れたのかという点です。16-17節は、その文言がなくても、ヨハネの「信仰告白」として十分に伝わって来るではありませんか。それなのにヨハネは、余分とも思えるこれら文言をこの中心に入れています。恐らくヨハネは、自分に向けられた限りなく大きな愛に照らして、そこに神さまとイエスさまの思いを見いだしたのでしょう。昔、ノアの時代に、ご自分がお造りになった世界を滅ぼしてしまおうと大洪水を起こされた神さま。選びの民と誇りながら頑固に神さまに逆らったユダヤ人に、国を取り上げようと、ローマを敵対させた神さま。そんな神さまの哀しみは、人の罪に対してでした。旧約聖書には罪祭や燔祭など動物の犠牲が出て来ますが、そんなものでは贖うことが出来ないほど、人の罪は膨れ上がっていたのです。神さまが愛するひとり子イエスさまを私たちに遣わされたのは、それほど私たちの罪が大きくなっていたということなのでしょう。イエスさまは、その罪を負い、私たちを贖うために来られました。私たちが聞かなければならないイエスさまご降誕の意味は、そこにあります。「人の子」という呼称には、私たち人間の罪を背負うという、イエスさまの決意が感じられます。このクリスマスの時期に、その限りなく大きな愛とともに、咎められるべき私たちの罪の大きさを覚えたいではありませんか。