2014 Christmas Message


人となって地に

ヨハネ 3:13−15
ミカ       5:2
T ヨハネが見つめたところを

 今朝、第一アドベントを迎え、クリスマス・シーズンに入りました。今年のクリスマスは、講解説教を続けているところでもあり、おもにヨハネ福音書から見ていきたいと思います。第一回目は3:13-15からです。「だれも天に上った者はいません。しかし、天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(13-15)

 「天から下った者はいる」と、これがイエスさまご降誕に関するヨハネの証言です。ヨハネの証言は勿論これだけではありませんが、いづれも、共観福音書が基調とする「おとめマリヤより生まれ」(使徒信条)という証言からは、全く異なったところで論じられています。ヨハネが見つめていたところに的を絞り、見ていきたいと思います。中心主題は、「人の子」です。


U 神の子と人の子は

 このクリスマス・メッセージ理解の鍵になると思われますので、少し説明しておきたいと思います。「人の子」という称号はヨハネ福音書に14回出て来ますが、マタイ31回、マルコ15回、ルカ26回に比べると一番少なく、共観福音書は「人の子」を主題にしており、ヨハネは「神の子」を主題にしていると言われています。しかし、回数ということから言えば、「神の子」はマタイ9回、マルコ4回、ルカ6回に比べて、ヨハネは9回と、ヨハネが特に多いわけではありません。ヨハネ福音書での「人の子」と「神の子」は、「神の子」がよみがえりの主に対する弟子たちの信仰告白であるのに対し、「人の子」はイエスさまご自身の呼称という違いはありますが、相互に補完し合っていると見ていいのではないでしょうか。端的に言いましょう。この福音書は、イエスさまを「世に遣わされた先在のロゴス」と、ロゴス賛歌から始めているように、他の福音書と比べて「神の子」という意識が強く、イエスさまがご自分を「人の子」と呼ばれたのも、その意識においてなのです。そして「神の子」も、「人の子」をくぐり抜けた中で言われていると感じます。

 近現代の批評的神学者たちの中には、歴史上に登場したナザレのイエスを、その奇跡や受難と復活を見て弟子たちが「神の子」と呼んだのだという主張があります。しかし、そうではなくて、このお方は、世に来られる前から本来的に、そして、その業が完結した中での終末的意味合いも込めて、「神の子」なのです。その「神の子」が世に来られ、地上を歩まれた。その歩みの中で、「人の子」を名乗られたと聞かなければなりません。「天から下り、人となったお方」、これが、ヨハネのまず第一の揺るぎない信仰の告白でした。


V 人となって地に

 「天から下ったお方」、ヨハネはこれを御父から「遣わされた」と、何回も繰り返しています。それは父なる神さまのご計画であって、「信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」(15)とあります。永遠のいのちは神さまに属していますから、「信じる者は神さまの御国に招かれる=神さまの救済計画」と聞いていいでしょう。ヨハネはそのために、「モーセが荒野で蛇を上げたように」と言いました。そのイスラエルの故事に倣うかのように、「イエスさま(人の子)もまた上げられなければならない」と言われた、それは、十字架を指しています。今、ヨハネがこの書を執筆しているのはエペソ、古代ローマ・ギリシャの世界です。その世界の叙情詩などに見られるように、神々が人間世界に下って来て、いろいろな神話が生まれていました。しかしその神々は決して肉体を纏うことはなく、従って、人の罪のための贖罪などということも起こり得ません。ところがイエスさまは、十字架に死ぬために人となって地上に来られたのです。「人の子」は「地上を歩む神」であると、このヨハネ福音書講解説教で何度も繰り返して来ましたが、人となって地上での歩みを全力で歩み通したイエスさまの歩みは、十字架に凝縮しているのです。その十字架の主が私たちのところに来られた。これがヨハネの信仰告白の中心主題です。このクリスマスに、そのことに心を馳せたいと願わされます。